― 他人に流されず、されど他人を責めず ―
孟子は、柳下恵(りゅうかけい)という人物を高く評価し、その態度を**「真の君子」**として語ります。
1. 誰であっても「仕えるに値するところがあれば仕える」
柳下恵は、道義に背くことなく、次のような姿勢を貫きました。
- 「汚れた君主」であっても、それを恥じなかった
→ 君主の品格ではなく、自分の行いに基準を置いていた。 - 身分の低い職務に就いても、決して卑しいとは思わなかった
- 自分の能力を隠すことなく、必要とされれば進んで尽力した
これはつまり、「どんな状況でも、己の道を正しく行う」という強さのあらわれです。
2. 恵まれなくても恨まず、困窮しても憐れまず
「遺(わす)れられても怨まず、困(くる)しんでも憫(うれ)えず」
柳下恵は、自分が不遇の境遇に置かれても、人や運命を恨むことはなく、静かに受け止めていたのです。
3. 「あなたはあなた、私は私」
孟子が特に強調するのが、柳下恵のこの言葉:
「汝(なんじ)は汝、我は我。
たとえ、私のそばで裸になって騒ごうとも、
あなたが私を汚すことはできない」
これは、道を守る者は他者に左右されないという絶対的な独立心の表れです。
- 他人の無作法や不道徳があっても、自分の品位は保たれる。
- 「他人の乱れ」によって「自分の道」を失わない。
そのため、柳下恵はそうした人物たちと一緒にいても、
「由由然として之と偕(とも)にし、自らを失わず」
つまり、いつも楽しげに、されど自分の道を曲げることはなかったのです。
4. 引き止められれば止まる、されど迎合はしない
もう一つ特筆すべき点は、
「止まれ」と言われれば止まり、
「行け」と言われれば去る――ではなく、
引き止められれば止まり、
それを無視して立ち去ることは“潔しとしなかった”
これは、自分の意志を持ちながらも、人の情や配慮を見過ごさない柔らかな徳です。
結論:自分を見失わず、他人にも寛容であるという徳
柳下恵の生き方は、次のような“仁のバランス”を体現しています:
- 外的な影響に左右されない強さ
- 他人の非を過剰に糾弾しない寛容さ
- 与えられた役目には誠実に応じる責任感
- 人の善意を無視せず、受け止める謙虚さ
原文(ふりがな付き引用)
「柳下恵(りゅうかけい)は、汙君(おくん)を羞(は)じず、小官(しょうかん)を卑(いや)しとせず。
賢(けん)を隠さず、必(かなら)ず其(そ)の道を以(もっ)てす。
遺佚(いしつ)せられて怨(うら)みず、阨窮(あっきゅう)して憫(うれ)えず。故(ゆえ)に曰(い)わく:
「汝(なんじ)は汝、我(われ)は我。
袒裼(たんせき)し、裸裎(らてい)して我が側に在(あ)りと雖(いえど)も、
汝、焉(いずく)んぞ能(よ)く我を浼(けが)さんや」故に由由然(ゆうゆうぜん)として之(これ)と偕(とも)にして、自(みずか)ら失(うしな)わず。
援(ひ)いて之を止(と)むれば止まり、
援いて之を止むれば止まる者は、是(こ)れ亦(また)去(さ)るを屑(せつ)しとせざるのみ。」
注釈(簡潔版)
- 柳下恵:古代中国の賢人。高潔で柔和な人格者。
- 汙君:道義に欠けた主君。
- 袒裼・裸裎:上半身裸になるなど、無礼・無作法なふるまい。
- 由由然:楽しげで、満足そうな様子。
- 自ら失わず:自分の生き方・信念を失わない。
- 屑しとせず:価値あることとみなさない、潔しとしない。
パーマリンク(英語スラッグ案)
you-are-you-i-am-me
(汝は汝、我は我)remain-yourself-amid-chaos
(乱の中でも自分を保て)virtue-does-not-contaminate
(徳は汚されない)
この章は、**「自分の信念を守りながら、周囲と調和して生きる」**という、極めて成熟した人間像を示しています。
柳下恵の姿は、現代においても「人に流されず、他人を責めない」生き方の理想像として学ぶべき点が多いでしょう。
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