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自然に身を置くと、心が洗われ、本来の自分に還る

俗世間から離れ、山林に静かに暮らしてみると、
心の中はすがすがしく澄みわたり、目に映るものすべてに趣が感じられるようになる。

たとえば――
空にたなびく一片の雲や、野に佇む鶴を見ると、世俗を超越するような気持ちが芽生える。
岩の間を流れる清流に触れれば、心のよごれが洗い流されるようだ。
古木の檜や冬の梅に手を添えれば、強い節操で自らを立て直す気力が湧いてくる。
水辺で遊ぶかもめや鹿たちと過ごしていれば、人間社会の策略や打算を忘れてしまう。

だが一たび山を下りて世俗の町に戻れば、たとえ自分に関係のない事柄であっても、
否応なく巻き込まれ、心が再び濁りに染まってしまう。

自然の中にこそ、清らかな心を育てる力がある。


原文とふりがな付き引用

山居(さんきょ)すれば、胸次(きょうじ)清洒(せいしゃ)にして、物(もの)に触(ふ)れて皆(みな)佳思(かし)有(あ)り。
孤雲(こうん)野鶴(やかく)を見(み)て超絶(ちょうぜつ)の想(おも)いを起(お)こし、石礀(せきけつ)流泉(りゅうせん)に遇(あ)いて澡雪(そうせつ)の思(おも)いを動(うご)かす。
老檜(ろうかい)寒梅(かんばい)を撫(な)でて勁節(けいせつ)挺立(ていりつ)し、沙鷗(さおう)麋鹿(びろく)を侶(とも)として機心(きしん)頓(とみ)に忘(わす)る。
若(も)し一(ひと)たび走(はし)って塵寰(じんかん)に入(い)らば、物(もの)の相関(そうかん)せざるに論(ろん)無(な)く、即(すなわ)ち此(こ)の身(み)も亦(また)贅旒(ぜいりゅう)に属(ぞく)せん。


注釈

  • 胸次清洒(きょうじせいしゃ):胸のうちが澄みきってすがすがしい状態。
  • 佳思(かし):風雅な趣や味わい、感性を刺激するもの。
  • 超絶の想い:世俗を超えて、自由で超然とした気持ち。
  • 澡雪(そうせつ):心の垢を洗い清めること。
  • 勁節挺立(けいせつていりつ):強い節操を持ち、力強く立ち上がる意志。
  • 沙鷗麋鹿(さおうびろく):自然の中で共に生きる水辺の鳥や鹿。無心な存在。
  • 機心(きしん):人間関係における打算・策略・計略の心。
  • 塵寰(じんかん):俗世間、町中。
  • 贅旒に属せん(ぜいりゅうにぞくせん):無関係なことにも巻き込まれ、害を被るたとえ。

1. 原文

山居、胸次清洒、觸物皆有佳思。見孤雲野鶴而起超絶之想、遇石㵎流泉而動澡雪之思。撫老檜寒梅而勁節挺立、侶沙鷗麋鹿而機心頓忘。若一走入塵寰、無論物不相關、即此身亦屬贅旒矣。


2. 書き下し文

山居(さんきょ)すれば、胸次(きょうじ)清洒(せいしゃ)にして、物に触れて皆(みな)佳思(かし)有(あ)り。
孤雲(こうん)野鶴(やかく)を見て超絶(ちょうぜつ)の想(おも)いを起こし、石㵎(せきがん)流泉(りゅうせん)に遇(あ)いて澡雪(そうせつ)の思(おも)いを動(うご)かす。
老檜(ろうかい)寒梅(かんばい)を撫(な)でて勁節(けいせつ)挺立(ていりつ)し、沙鷗(さおう)麋鹿(びろく)を侶(とも)として機心(きしん)頓(とみ)に忘(わす)る。
若(も)し一たび走(はし)って塵寰(じんかん)に入(い)らば、物の相関(そうかん)せざるに論(ろん)無(な)く、即(すなわ)ち此(こ)の身も亦(また)贅旒(ぜいりゅう)に属(ぞく)せん。


3. 現代語訳(逐語/一文ずつ訳)

  • 山に暮らしていれば、心の中は清らかに澄みわたり、目に入るものすべてが美しい発想を生み出す。
  • 空にただよう孤独な雲や野に舞う鶴を見て、世俗を超えた自由の想いが湧き、
  • 岩間を流れる清流に出会えば、心の垢を洗い流すような清新な感覚が生まれる。
  • 老いた檜や寒中に咲く梅に触れては、節操の強さが自然と心に立ち上がり、
  • 水辺のかもめや森の鹿たちと過ごすうちに、俗世の計算や打算もふと忘れてしまう。
  • しかし一たび俗世へ走って戻れば、何に触れても感応することはなくなり、この身すらも無用の飾りと化してしまうのだ。

4. 用語解説

  • 胸次清洒(きょうじせいしゃ):胸中が清らかでさっぱりしていること。心の澄明さ。
  • 佳思(かし):美しい発想・感興。
  • 澡雪(そうせつ):心の垢を洗い清める比喩。禅語としても用いられる。
  • 勁節挺立(けいせつていりつ):節操(信念や徳)を強く貫いて立つこと。
  • 機心(きしん):計算高い心、利己心、損得勘定などの俗的な思考。
  • 塵寰(じんかん):俗世、世間の煩わしさ。
  • 贅旒(ぜいりゅう):飾りすぎた装飾品。ここでは「無用の存在」の象徴。

5. 全体の現代語訳(まとめ)

山中に暮らしていれば、心は澄みわたり、見るものすべてが豊かな発想を与えてくれる。
空を行く孤雲や野の鶴には自由への憧れを抱き、流れる清水には心を洗われるような感覚を得る。
老木や梅の強さには節操を感じ、鷗や鹿と過ごす時間には、世俗の計算など忘れてしまう。
しかし一度俗世に戻ってしまえば、もはや何を見ても感動も響きもなくなり、この身すらもただの余計な飾り物のように感じられるだろう。


6. 解釈と現代的意義

この章句は、「自然との一体感によって心が清まる」という東洋思想の中核をなすテーマを描いています。

  • 静かな自然に身を置けば、感性が蘇り、心が洗われる
  • 動物・植物・風景が、自己の内面と呼応し、徳や思想を触発してくれる
  • しかし俗世に戻れば、その感性は閉ざされ、自らの存在までもが“無意味な飾り”と化す

これは、仏教の「離欲」、道家の「自然回帰」、儒教の「修養」のすべてに通じる内容です。


7. ビジネスにおける解釈と適用

✅ 「環境が心を整える」

常に都市の喧騒に身を置くのではなく、定期的な自然との接触が思考や感性のリセットになる。

✅ 「本来の価値観を取り戻すには、物理的に離れる」

疲れたとき、混乱したときは、無理に考えずに「山居」的な空間を持つ。場所の力が心を澄ませる。

✅ 「感性が鈍れば、存在が装飾になる」

ビジネスにおいても、感性を失えば“やっているようで意味のない”活動になりがち。
本質に反応できる心の澄明さが、真の価値創出に直結する。


8. ビジネス用の心得タイトル

「心を澄ませる山の時間──感性なき働きは余計な飾りに過ぎない」


この章句は、エグゼクティブ・リトリートの精神的支柱として、また自然回帰型リーダーシップ研修の導入テーマにも適しています。

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