一、章句の原文と現代語訳(逐語)
🔹原文(聞書第二より)
出し抜きに首打落されても、一働きはしかと成るはずに候。
義貞の最期証拠なり。心かひなく候て、そのまま打倒ると相見へ候。
大野道賢が働きなどは近き事なり。
これは何かする事と思ふぞ唯一念なる。
武勇のため、怨霊悪鬼とならんと大悪念を起したらば、首の落ちたるとて、死ぬはずにてはなし。
🔹現代語訳(逐語)
たとえ不意に首をはねられたとしても、一働きは確実にできるはずである。
新田義貞の最期がその証拠だ。もし彼が心の張りを失っていたら、そのまま倒れていただろう。
近い例では、大坂落城のときの大野道賢の働きがある。
「何がなんでもやり遂げる」と思いつめた強い執念、それが“一念”である。
もし武士として武勇に徹し、「死してなお怨霊・悪鬼になって敵を討たん」と強く思えば、
たとえ首が落ちても、すぐには死なないものである。
二、主旨:「悪鬼」になってでも果たす執念があるか
この章句の真意は、文字通り「死後も動け」と言っているのではなく、**命を超えるほどの“決意の強度”**を語っています。
● 「死んでも果たす」ではなく「死ぬ前に既に果たしている」ほどの一念の凝縮力
● 人間を超えた存在(=悪鬼)になる覚悟とは、志を怨念のごとく強く持つこと
● それは常朝が繰り返し語る「狂気の哲学」の最終段階である
つまり、“悪鬼”とは比喩的に、目的を果たすまで死をも退ける精神力の象徴なのです。
三、引用逸話の意義
● 新田義貞の最期
太平記によれば、義貞は矢を受け、最期を悟って自ら首を斬り、泥中に隠して伏したという。
ここで常朝が注目しているのは、死の間際まで冷静かつ目的的に行動した精神の強靭さです。
● 大野道賢の最期
火あぶりにされ黒焼きになってからも動き、検使を刺し殺したという伝説的な逸話。
真偽は別として、ここで語られるのは死してなお目的を果たす執念の化身です。
四、現代的応用:「死して悪鬼」とは何か?
この教えを現代で実践するには、物理的な“死”ではなく、**精神的な「退路断絶」「自己超越」**として読み替えることができます。
状況 | 教訓・応用 |
---|---|
起業・ミッション型事業 | 成功するか否かではなく、「やる以外に道がない」という一念が、死を超えるような突破力を生む。 |
クライシス対応 | 絶体絶命の中で、「何としても結果を出す」という覚悟が、人間離れした力を引き出す。 |
リーダーシップ | 仲間が倒れても、リーダーが「悪鬼の如く」前進し続ける姿勢が、組織を支える。 |
創作や研究活動 | 才能ではなく、「魂がこもるまでやる」者だけが“何かを遺す”。その精神は、命よりも長く残る。 |
五、「一念」の力と実行の精神
「一念」――それは、揺らがぬ意思。
「悪鬼」――それは、理を超えた執念。
現代において、この“悪鬼”とは、次のような態度に読み替えられます:
- 批判や困難に心を折られず、歯を食いしばって進む人
- 成否を超えて「自分の使命」に命をかける人
- 他者の心に刻まれるほど、強く濃く生きた人
六、まとめ:『葉隠』が示す「死してなお働く」生き様
- 死の直前まで、いや死後すら含めて、目的に殉ずる精神が「武士道」の極みである
- 生き延びることではなく、魂を残す生き様をこそ尊ぶ
- 「狂」「死狂ひ」「気違い」――すべてはこの「悪鬼の一念」に収束する
✅心得要約:生きても死んでも志を遂げる ― それが悪鬼の道である
命の続くかぎり戦うのではない。
志を貫くために命を使い果たすのだ。
たとえ首が落ちても、怨霊となってでも一矢を報いるほどの執念――それが、現代に通じる「狂の完成」である。
死ぬまで動く者ではなく、死んでも動く魂こそ、真に生きた者である。
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