孟子はここで、「理(ことわり)」と「義(ただしさ)」は私たちの心にとって“快いもの”であり、
それはちょうど、おいしい肉が口にうれしく、良い音楽が耳に心地よく、美しいものが目に美しく映るのと同じことだと説いています。
味覚・聴覚・視覚――人間は同じものを快く感じる
孟子は次のように例を挙げます:
- 味覚:斉の名料理人・易牙の料理が天下一とされるのは、人々の“味の好み”が大体共通しているからである。
→ もし人それぞれ好みが全く異なっていたら、易牙の料理は一部の人にしか評価されなかったはず。 - 聴覚:古の楽師・師曠の音楽が高く評価されたのも、人々の“聴く快さ”が共通していたから。
- 視覚:美しい人物・子都の容貌を美しいとするのは、人々の“美的感覚”が共通しているから。
孟子の主張は明快です――
味・音・美において人間は共通の感覚を持っている。
ならば、心における善悪や理非の判断もまた、共通しているのではないか?
心の「快」=理と義への共感
孟子は問いかけます:
「では、心において“皆が共通して好むもの”とは何か?」
その答えが、**「理(ことわり)」と「義(ただしさ)」**です。
- 聖人とは、我々の心が“よい”と感じるものを誰よりも早く・深く理解し、実践した人物にすぎない。
- だから、理や義が我々の心を喜ばせるのは、牛や豚の肉が口を喜ばせるのと同じである――と孟子は言います。
この喩えは、人間の「徳」や「善」の感覚が生得的であるという孟子の性善説を裏打ちする、実感にもとづいた比喩です。
出典原文(ふりがな付き)
口(くち)の味(あじ)に於(お)けるや、同(おな)じく耆(この)むこと有(あ)り。
易牙(えきが)は先(ま)ず我が口の耆む所を得(え)たる者なり。
如(も)し口の味に於けるや、其の性(せい)人と殊(こと)なること、犬馬(けんば)の我と類(たぐ)いを同じうせざるが若(ごと)くならしめば、
則(すなわ)ち天下(てんか)何(なん)ぞ耆むこと、皆(みな)易牙の味に於けるに従(したが)わんや。
味に至(いた)りては、天下、易牙に期(き)す。是(こ)れ天下の口、相似(そうじ)たればなり。
惟(ただ)耳も亦(また)然(しか)り。声に至りては、天下、師曠(しかく)に期す。是れ天下の耳、相似たればなり。
惟目(ただめ)も亦然り。子都(しと)に至りては、天下其の姣(こう)を知らざる莫(な)きなり。
子都の姣を知らざる者は、目無(な)き者なり。
故(ゆえ)に曰(い)く、口の味に於けるや、同じく耆むこと有り。
耳の声に於けるや、同じく聴(き)くこと有り。
目の色に於けるや、同じく美(び)とすること有り。
心に至りて、独(ひと)り同じく然(しか)りとする所無からんや。
心の同じく然りとする所の者は何ぞや。
謂(い)わく、理(り)なり、義(ぎ)なり。
聖人(せいじん)は先(さき)に我が心の同じく然りとする所を得たるのみ。
故に理義の我が心を悦(よろこ)ばすは、猶(なお)芻豢(すうかん)の我が口を悦ばすがごとし。
注釈
- 易牙(えきが):斉の桓公に仕えた名料理人。
- 師曠(しかく):晋の名楽師。音楽に秀でていたことで知られる。
- 子都(しと):古代の美男子または美人とされる人物。
- 姣(こう):美しさ。
- 芻豢(すうかん):牛や豚など、飼育された食用動物のこと。ここでは「うまい肉」の象徴。
パーマリンク候補(英語スラッグ)
virtue-tastes-good
「徳はうまい」という孟子の比喩を軽妙に翻案。
その他の候補:
- moral-pleasure(心が喜ぶ道義)
- savoring-righteousness(正しさを味わう)
- truth-feeds-the-heart(理は心を養う)
この章は、人間の感覚的経験をもとに、道徳の普遍性を証明する孟子の論理的巧みさが際立っています。
徳とは特別な人が持つものではなく、誰の心にも「おいしい」と感じられるもの――そう言われると、私たちにも届く感覚として道徳が見えてくるのです。
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