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真の節操とは、人倫を尊び、情理をわきまえること

― 偏屈な孤高は、道を誤る危うさをもつ

前項の続きで、匡章はなおも陳仲子(ちんちゅうし)の廉潔な生き方を擁護する。

「仲子は自分で靴を織り、妻は麻をつむいで、それと交換して生活しています。それなら、他人の不義に染まっていないと言えるのではないでしょうか?」

これに対して孟子はさらに一歩踏み込んで、仲子の生き方の**“倫理的破綻”**を批判する。


「兄を避け、母を遠ざける」 ― 家族関係を損なう生き方

仲子は、斉の士族として代々禄を受けてきた家柄に生まれた。
その兄・戴は、蓋の地で万鐘の俸禄を受けていた。仲子はこの俸禄を「不義」と見なし、兄の家も「不義の家」として住まず、母からも離れて於陵に独居する。

そんな折、仲子が帰郷した際、誰かが兄に**ガチョウ(鶃鶃)**を贈った。仲子はそれを見て眉をひそめる。

「どうしてこんなガアガア鳴くものを贈るのか…」

後日、母がそのガチョウを料理し、仲子にふるまった。仲子は食べた。
しかし兄が戻ってきて言った。

「それ、あのガチョウの肉だぞ」

これを聞いて仲子は外に出て、わざわざ吐いたという。

孟子はこう問う。

  • 母の料理は食べず、妻の料理は何も疑わずに食べるのか?
  • 兄の家には「不義」として住まず、於陵の住まいには平然と住むのか?

こうした一連の振る舞いに、孟子は筋が通っていない、節操に一貫性がないと痛烈に指摘する。


「みみず」にならねば筋が通らぬ生き方

「仲子のような生き方は、蚓(みみず)にでもならねば貫き通せない」

孟子は再び「蚓(みみず)」のたとえを持ち出す。
みみずは、自分の力で土を食い、水を飲み、誰にも依存せずに生きる。
だが、人間は社会と人との関係の中で生きており、完全に“潔癖”に生きることは不可能である。

孟子の論点はここにある:
「正しさ」とは、独りよがりの潔癖ではなく、人間関係の中で礼をわきまえ、情を重んじたバランスある判断に基づくべきである。


原文(ふりがな付き引用)

「母を以てすれば則ち食わず、妻を以てすれば則ち之を食う。兄の室を以てすれば則ち居らず、於陵を以てすれば則ち之に居る」
― これでは、人倫の道が立たないではないか


注釈

  • 匡章(きょうしょう)…孟子の同時代人で、仲子の清廉さを評価する人物。
  • 陳仲子(ちんちゅうし)…潔癖な独居生活を送った人物。孟子はその“節操の不整合”を批判する。
  • 万鐘(ばんしょう)…莫大な俸禄。義に反する富として仲子はこれを拒絶した。
  • 鶃鶃(ぎょくぎょく)…ガアガア鳴くガチョウの鳴き声の表現。
  • 蚓(みみず)…完全に独立自足する生き物の象徴。

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  • virtue-must-balance-humanity(徳は人情と調和せよ)
  • purity-without-compassion-is-faulty(思いやりなき潔癖は誤り)
  • right-conduct-needs-relationship(正義は人間関係の中にこそある)

この章は、孟子の人倫に対する深い洞察と優先順位の明示を感じさせます。
清廉を貫くにしても、それが家族への礼や思いやりを犠牲にするのであれば、それは本当の“徳”とは言えないという警告です。

孟子の思想では、「義(ぎ)」は「仁(じん)」と切り離されてはならず、正しさとは“孤高”ではなく“関係性”の中にこそ実を結ぶのです。

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