仁と義は、どちらも人の内心から発するものであり、区別されるものではない。
告子が「仁は内、義は外」と区別し、道徳の外在性を主張したのに対して、孟子はそれを徹底して否定し、仁義は同根であり、人間の本性に由来するものであると力強く主張する。
孟子にとってこの議論は単なる語義論ではなく、性善説の根幹をなす思想的対決である。
告子の主張:仁は内、義は外
告子は次のように言う:
「食欲や色欲は、人の本性である。
仁は人の心の内から起こるが、義は外の状況を見て判断するものであり、心の中ではない。
たとえば、相手が年長者であることを見て敬意を持つのが義であるが、それは外からの情報による行為だからだ」。
孟子の反論:義もまた内心に発するもの
孟子はすかさず切り返す:
「年長者を敬うことが義であるのは、年長者であるという情報が外にあるからではなく、それを敬うというあなたの心のはたらきがあるからだ。
それを言うなら、馬の白さと人の白さを見て“白い”というのと何も変わらなくなってしまう。
果たして、馬が年長であることと、人が年長であることを、同じように扱えるだろうか?
大切なのは、“年長者を敬うこと”こそが義であり、これは人の内から発する倫理的な判断である」。
告子が「弟は愛せるが、秦人の弟は愛せない」と内外を分けると、孟子はこう切り返す:
「それは焼き肉を自分が好むか、秦人が好むかの違いのようなもので、好き嫌いで内外を区別しているだけではないか。
しかもあなた自身、“焼き肉を好む”というのは性(本性)だと言った。
すると、“焼き肉が外にあること”が本性と関係するなら、あなたの理屈は最初の主張と矛盾することになる」。
つまり孟子は、内と外という形式的な区別ではなく、人間の倫理的行動は心に由来するものであり、それが性に根ざしていると主張する。
出典原文(ふりがな付き)
告子(こくし)曰(いわ)く、食色(しょくしょく)は性(せい)なり。
仁(じん)は内(ない)なり、外(がい)に非(あら)ざるなり。
義(ぎ)は外なり、内に非ざるなり。
孟子(もうし)曰(いわ)く、何(なに)を以(もっ)て仁は内、義は外と謂(い)うや。
告子曰く、彼(かれ)長(ちょう)じて我(われ)之(これ)を長とす。
我に長有るに非ざるなり。猶お彼白くして我之を白しとするがごとく、
其の白きに外に従う。故に之を外と謂うなり。
孟子曰く、馬の白きを白しとするは、以(もっ)て人の白きを白しとするに異(こと)なること無し。
不識(し)らず、馬の長を長とするは、人の長を長とするに異なること無きか。
且(か)つ謂(い)え、長ずる者義か、之を長とする者義か。
告子曰く、吾が弟は則ち之を愛し、秦人の弟は則ち愛せざるなり。
是れ我を以(もっ)て悦びを為(な)す者なり。故に之を内と謂う。
楚人の長を長とし、亦(また)吾の長を長とす。是れ長を以て悦びを為す者なり。故に之を外と謂うなり。
孟子曰く、秦人の炙(あぶ)り肉を耆(この)むは、以て吾が炙を耆むに異なること無し。
夫(そ)れ物は則ち亦(また)然る者有り。然らば則ち炙を耆むも、亦外とする有るか。
注釈
- 仁(じん):人間の愛情、思いやりの徳。心から湧く感情や行為。
- 義(ぎ):正義、道理にかなった行い。状況判断ではなく、内心の判断から出る行為。
- 内/外:告子は「内=心」「外=状況」として区別するが、孟子はこれを否定。
- 耆む(このむ):好む、好物とする。
- 炙(あぶり):焼き肉。ここでは感覚の問題の例えに使われている。
パーマリンク候補(英語スラッグ)
virtue-is-from-within
「徳(仁義)は心の内にある」という孟子の立場を表現。
その他の候補:
- no-virtue-without-heart(心なくして徳なし)
- righteousness-is-not-external(義は外にあらず)
- benevolence-and-justice-one-root(仁義同根)
この章は、孟子の性善説を支える重要な理論的支柱であり、仁と義がどちらも「心のはたらき」であるという主張を貫いています。
形式的な区別や論理のあやに惑わされず、人間の道徳的可能性を信じる孟子の強い意志と情熱が読み取れます。
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