力によらず、人心を得てこそ、真の統治である
楚からやってきた許行は、自らを「神農の教えを伝える者」と称し、文公の仁政を聞きつけて門前までやってきた。
「私は遠方から来た者です。あなたが仁政を行っていると聞き、この国の一人の民となりたく参りました」
文公は快く住居(一廛)を与えた。
許行の弟子たちは数十人。皆が粗末な布衣をまとい、藁ぐつを編み、むしろを織って生活していた。労働に根ざした生活を重んじる、いわゆる農家(のうか)学派である。
そこに、かつて儒者・陳良の弟子だった陳相と弟の陳辛が、農具を担いで宋からやってきた。
「あなたが聖人の政治を行っていると聞いて来ました。あなたこそ聖人です。ぜひ我々もこの地で民となりたい」
こうして移住した陳相も、後に許行の思想に心酔し、それまでの儒学を捨てて農家の教えに転向した。
本章の主題
この出来事が示すのは、良い政治には自然と人が集まり、国の境を越えて人心が動かされるということ。
孟子が一貫して説いてきた「徳による統治」の本質は、強制せずとも人々を引き寄せる力にある。
武力ではなく、信頼によって人が集い、治まる。
文公の国はまさにそれを体現しつつあった。
引用(ふりがな付き)
方(ほう)の人(ひと)、君(きみ)仁政(じんせい)を行(おこな)うと聞(き)く。願(ねが)わくは一廛(いってん)を受(う)けて氓(たみ)と為(な)らん。
君(きみ)聖人(せいじん)の政(まつりごと)を行(おこな)うと聞(き)く。是(こ)れ亦(また)聖人(せいじん)なり。願(ねが)わくは聖人(せいじん)の氓(たみ)と為(な)らん。
簡単な注釈
- 許行(きょこう):神農の教えを継ぐと称した農家思想の代表者。労働による自立と実践を重視。
- 氓(ぼう/たみ):他国から移住してきた民。自由意思によって従う者たち。
- 一廛(いってん):一軒の住まい。土地と共に移住者に与えられた生活の拠点。
- 耒耜(らいし):古代中国で使用された農具。自ら耕作する姿勢の象徴。
- 褐(かつ):質素な麻布の衣。労働者の象徴としての服装。
パーマリンク候補(スラッグ)
- virtue-draws-people(徳は人を引き寄せる)
- rule-by-goodness(善による統治)
- people-seek-the-righteous(人は正義を求めて集まる)
この章は、仁政の魅力が国境を越えて人を惹きつけるという、孟子的理想国家のリアルな一例として描かれています。加えて、儒家と農家という思想の接触も背景に見え、文公の国が一種の「思想の交差点」になっていた様子も感じられます。
1. 原文
爲神農之言者許行,自楚之滕,踵門而告文公曰:
「遠方之人,聞君行仁政,願受一廛而為氓。」文公與之處。
其徒數十人,皆衣褐,捆屨,織席以為食。
陳良之徒陳相與其弟辛,負耒耜而自宋之滕,曰:
「聞君行聖人之政,是亦聖人也,願為聖人氓。」
陳相見許行而大悅,盡棄其學而學焉。
2. 書き下し文
神農の言を為す者、許行あり。楚より滕に之(ゆ)き、門に踵(おく)れて文公に告げて曰(いわ)く、
「遠方の人、君、仁政を行うと聞く。願わくは一廛(いっせん)を受けて氓(ぼう)と為らん。」
文公、これに処(ところ)を与う。
その徒(ともがら)数十人、皆褐(かつ)を衣(き)、屨(くつ)を捆(は)き、席を織りて以て食を為せり。
陳良の徒、陳相(ちんしょう)・その弟辛(しん)、耒耜(らいし)を負いて宋より滕に之く。曰く、
「君、聖人の政を行うと聞く。是れ亦た聖人なり。願わくは聖人の氓と為らん。」
陳相、許行を見て大いに悦(よろこ)び、尽(ことごと)くその学を棄(す)ててこれを学べり。
3. 現代語訳(逐語/一文ずつ訳)
- 「為神農之言者許行」
→ 神農の政治思想を奉じる者に、許行という人物がいた。 - 「自楚之滕,踵門而告文公曰」
→ 楚から滕に赴き、文公のもとに押しかけてこう述べた。 - 「遠方之人,聞君行仁政,願受一廛而為氓」
→ 「私は遠方の者ですが、あなたが仁政を行っていると聞きました。小さな宅地(=一廛)を頂き、平民(氓)として住まわせていただきたい。」 - 「文公與之處」
→ 文公はそれを許し、住まいを与えた。 - 「其徒數十人,皆衣褐,捆屨,織席以為食」
→ 許行に従う者は数十人いて、粗布の衣を着て草履を履き、ござを織って食料を得ていた。 - 「陳良之徒陳相與其弟辛,負耒耜而自宋之滕」
→ 陳良の門下である陳相とその弟・辛も、農具を担いで宋から滕へ移った。 - 「聞君行聖人之政,是亦聖人也,願為聖人氓」
→ 「君が聖人の政治を行っていると聞いた。あなたも聖人だ。どうかその聖人の庶民に加えていただきたい。」 - 「陳相見許行而大悅,盡棄其學而學焉」
→ 陳相は許行に会って大いに感銘を受け、自分の学問をすべて捨て、彼に学ぶようになった。
4. 用語解説
- 神農:古代伝説の聖王。農業・医薬の祖とされ、勤労・自給を重んじた。
- 許行(きょこう):神農の教えに基づき「衣食住を自らの労働で得る」ことを理想とした思想家。
- 一廛(いっせん):小さな宅地一区画。
- 氓(ぼう):一般の平民、百姓。
- 褐(かつ):粗末な麻布や毛織物で作った衣服。
- 捆屨(こんく):草履をはく。自給的生活の象徴。
- 耒耜(らいし):犂(すき)と鍬(くわ)=農耕の道具。
- 陳良・陳相:当時の儒者。儒教的教養を学んだが、許行の実践的思想に影響された。
5. 全体の現代語訳(まとめ)
神農の教えを実践する者・許行は、楚の国から滕にやって来た。
彼は滕の文公に、「あなたが仁政を行っていると聞いた。小さな宅地を与えていただければ、普通の民として暮らしたい」と願い出た。文公はそれを受け入れた。
許行に従う者は数十人におよび、皆が粗末な衣服を着て、草履を履き、ござを織ってその収入で生活していた。
また、陳良の弟子である陳相と弟・辛も、農具を担いで宋から滕へやって来た。彼らは、「君が行っている政治は聖人のもの。ぜひその庶民の一員に加えてほしい」と望んだ。
陳相は許行と会い、大いに感動し、それまで学んできたことをすべて捨てて、許行に従ってその生き方を学ぶようになった。
6. 解釈と現代的意義
この章句は、**「理想的な政治が人を惹きつけ、価値観の転換を引き起こす」**様子を描いています。
- 仁政(もしくは聖人の政治)が人々の心を動かすリアルな場面
政治の噂を聞きつけて、遠方から志ある者が集まり、理想の地を目指す様子は、信頼と共感による移住・参画の現象です。 - 行動する知識人=許行と、共鳴する知識層=陳相の対比
理論を語る儒者たちが、労働と自立を重んじる許行に感化され、学問から実践へと転換する様は、思想の根源的問い直しを示しています。 - 自給・労働・倫理が重視された“神農的世界観”への注目
これは儒教・法家・道家とは異なる第4の実践思想の萌芽ともいえる位置づけ。
7. ビジネスにおける解釈と適用
「共感される経営は、人を動かす」
- 社会性・誠実さ・実行力のあるビジョンを打ち出せば、人は給与や肩書ではなく、理念に惹かれて集まる。
- 「仁政=共感される経営方針」の威力は、採用や顧客関係にも影響する。
「実践の強さは、理論を越える」
- 理屈を語るだけでなく、自ら率先して動き、生活に根ざした行動を取るリーダーは、信頼される。
- 現場主義・生活主義のリーダー像が人材を引き寄せる。
「“働き方”そのものが、価値観を伝えるメディア」
- 粗衣粗食であっても、自律的・協働的な生活文化を実践すれば、その姿勢は強く共感される。
- オフィスの在り方・働き方・身なりまでが、組織の哲学の発信媒体になる。
8. ビジネス用心得タイトル
「語るより生きよ──理念を行動にする者が、人を動かす」
この章句は、ただの思想論ではなく、「実践者の影響力」「行動する思想」「社会参画の形」を示しています。
コメント