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悪を離れた人こそが、名にふさわしい


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📖 引用原文(『ダンマパダ』第33章「バラモン」第10偈)

頭を剃っているからといって、修行者なのではない。
「君よ」と呼ばれているからといって、バラモンなのではない。
大きな悪でも、小さな悪でも――
すべての悪を除いた人は、
諸の悪を除いたがゆえに、〈バラモン〉であり、〈修行者〉と呼ばれる。
――『ダンマパダ』第33章 第10偈


🔍 逐語訳(意訳)

修行者の姿をしていたとしても、
人から敬語で呼ばれたとしても、
それだけでは「バラモン」や「修行者」とは言えない。
大きな悪も小さな悪も、あらゆる悪を捨て去った者――
そのような者こそが、本当に「バラモン」であり「修行者」と呼ばれるのだ。


🧘‍♂️ 用語解説

  • 剃髪(頭を剃る):出家修行の象徴だが、ここでは外面的シンボル。
  • 「君よ」と呼ばれること:敬意を込めた称号・呼称。社会的認知。
  • 大きかろうと小さかろうと(マハントン チャ アッラカン チャ):善悪において軽重を問わず、という意。
  • すべての悪(サッバパーパ):身体・言葉・心による不善の一切。悪意・貪欲・偽り・残虐など。
  • 修行者/バラモン:形式ではなく、心と行動の清浄さに基づく称号。

🗣 全体の現代語訳(まとめ)

髪を剃って修行者の姿をしていても、
人から尊敬を込めて「君よ」「師よ」と呼ばれていても、
それだけでその人が本当に尊敬されるべき人とは限らない。
どんなに小さな悪でも、大きな悪でも、それを一切自分の内から除いた者――
その人こそが、真に清らかであり、「修行者」「バラモン」と呼ばれるにふさわしいのである。


🧭 解釈と現代的意義

この偈は、私たちに次のような問いを投げかけています:
「あなたは本当に清らかに生きているか?」
それは、見た目や名声ではなく、自らが日々どんな悪を選ばずに生きているかという問いです。
仏陀は、「小さな悪だからいい」といった妥協や、「呼ばれているからそうだ」といった慢心を厳しく戒めます。

本当の尊敬は、「実践と自己克服」によってのみ獲得されるという、現代にも通じる厳しくも温かい戒めです。


🏢 ビジネスにおける解釈と適用

観点応用・実践例
肩書きと実践の乖離立派な役職に就いていても、倫理的に不誠実であれば尊敬されない。
「小さな悪」への無自覚軽い虚偽報告、見て見ぬふり、不作為――小さな悪こそが信頼を損ねる要因になる。
真に尊敬される人の条件トップの人物が「悪を避ける判断基準」を持ち続けていることで、組織全体の道徳水準が保たれる。
評価基準の再構築成果だけでなく、「どうやって達成したか」に光を当てた評価制度が、組織文化を正す。

💡 感興のことば:心得まとめ

「名にふさわしい者とは、悪を断った者である」

バラモン、修行者、リーダー――
そう呼ばれるにふさわしい人とは、
小さな悪にも手を染めず、誠実を貫いた人である。
社会的称号よりも、内面の浄化と行いの純粋さこそが、真の名を与える。

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