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私はこれである」と言わぬ者こそ、真に流れを渡る


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📖引用原文(日本語訳)

上にも下にも全く情欲を離れた人は、「われはこれである」と観ずることが無いので、このように解脱して、未だ渡ったことのない流れを、この世で渡り、再び(迷いのうちに)生れることがないであろう。
――『ダンマパダ』 第二七章「観察」第二十八節


🧩逐語訳と解釈

  • 上にも下にも:あらゆる階層・対象・事象、すなわち天界的な快楽や地上的な執着を含むすべて。
  • 情欲を離れた人:感官的欲望に囚われず、心が自由な状態にある修行者、解脱者。
  • 「われはこれである」と観ずることが無い:自我への固執(我執)を離れ、「自分」という観念すらも超越している。
  • このように解脱して:欲・執着・自我をすべて離れた状態。涅槃に近づいた存在。
  • 未だ渡ったことのない流れ:苦悩と生死(サンサーラ)の大河。無明と束縛の象徴。
  • この世で渡り:現世において既に解脱を成し遂げる。
  • 再び生れることがない:輪廻転生の終焉。完全な涅槃の境地。

🧠用語解説

用語解説
上にも下にも高いもの・欲望的対象(美・名声)や、低いもの・物質的欲望(食・性)を含むすべて。
「われはこれである」自我に対する認識。自分と対象を同一視し、執着する心の働き。
流れ(ナディ)サンサーラ、すなわち迷いと苦しみの世界。
再び生れることがない輪廻からの完全解放、すなわち涅槃。

🪷全体の現代語訳(まとめ)

上にも下にも、あらゆる欲望を完全に離れた人は、
「これが自分だ」という思いにもとらわれない。

だからこそ、その人は、まだ誰も渡ったことのない苦しみの流れを、
この世で静かに渡りきり、二度と迷いの中に生まれることはない。
彼はすでに、真理の岸――涅槃――に到達しているのだ。


🌱解釈と現代的意義

この句は、「欲望の否定」ではなく、「自己への執着の否定」にこそ、
解脱の核心があることを教えています。
「これが自分だ」「こうあるべきだ」という自己観念、プライド、役割意識――
それらがすべて心の「重し」となって、流れを渡る妨げになるのです。

解脱とは、欲を捨てるだけでなく、「私という観念」さえも手放した自由な境地。
「私は○○だ」と定義することで、私たちはむしろ不自由になっていく――その逆を生きるのが賢者です。


💼ビジネスにおける解釈と適用

観点実務への応用例
肩書や役割への過度な執着「私は社長だ」「私はエースだ」といった固定的自己認識を超え、変化に柔軟な在り方を目指す。
エゴマネジメント他人や組織に自分を投影して苦しむのではなく、役割を果たしつつも、自己定義に縛られない姿勢を保つ。
変化の波を渡る力自我や慣習への執着を捨てたとき、チームや組織は変化の「流れ」を乗り越えられる。
リーダーの心の姿勢「俺が動かしている」「自分が正しい」という思い込みを手放すことで、真の謙虚と共感が生まれる。

📝心得まとめ

「私はこれだ」と言う限り、真に自由にはなれない。

欲を捨て、自分という枠をも捨てた者は、
人生の深い流れを静かに、そして確実に渡りきる。

その人は、再び生まれ変わることなく、真理の岸に安住する。

定義しない強さこそが、究極の自由である。


この第二十八節は、『ダンマパダ』第二七章「観察」の結びであり、完成ともいえる一節です。
ここには、「観察」とは自分をも対象化し、手放すことであり、
観察の果てには**「境界も我も超えた自由」**があるという、仏教思想の核心が示されています。

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