剛とは、意志を貫く力。しかしそれは、私欲から自由であってこそ
孔子はあるとき、「私はまだ、本当の意味での“剛者”を見たことがない」と語った。
するとある人が、「申棖(しんとう)は剛者ではありませんか」と問いかけた。
しかし孔子は、「いや、申棖にはまだ欲がある。そこに“剛”はない」と言い切った。
ここでいう「剛」とは、単なる頑固さや腕力ではなく、欲に揺るがず、志を曲げず、道を貫く精神の強さを意味する。
そのためには、我欲や私情を排し、冷静で純粋な心で物事に向き合うことが必要である。
孔子は、表面的な強さや激しさに惑わされることなく、真の強さを「我を捨てた心の境地」として捉えていたのだ。
原文とふりがな付き引用
子(し)曰(いわ)く、吾(われ)は未(いま)だ剛(ごう)なる者を見(み)ず。
或(ある)ひと対(こた)えて曰(いわ)く、申棖(しんとう)と。
子曰く、棖(とう)や、慾(よく)あり。焉(いずく)んぞ剛なるを得(え)ん。
強くあろうとするなら、
まず欲から自由にならなければならない。
注釈
- 剛(ごう)…意志の強さ、志を曲げない精神。私欲によって揺れ動かない「心の剛さ」。
- 申棖(しんとう)…人物像の詳細は不明だが、ある程度の気概は認められつつも、孔子からは「欲がある」と見なされた。
- 慾あり…私利私欲、個人的な執着があるという意味。心が純粋でなくなる要因。
- 焉んぞ剛なるを得ん…そんな状態で、どうして真の剛者と言えようかという反語。
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