釣りや囲碁といった一見高尚な趣味にも、裏には欲や争いの気配が潜んでいる。
心を清らかに保ち、穏やかに生きたいなら――何かを成すことより、成さぬことに価値を見出すべきである。
人より多くの才を持っていると誇るより、何もできなくても自分の本質を失わないほうが、よほど人間らしい。
多能の自負はときに虚栄を生み、本質を曇らせる。無能を恥じず、静かに我が身を守る人に、真の強さがある。
引用(ふりがな付き)
水(みず)に釣(つ)るは逸事(いつじ)なり。なお生殺(せいさつ)の柄(へい)を持(も)つ。
奕棋(えきき)は清戯(せいぎ)なり。且(か)つ戦争(せんそう)の心(こころ)を動(うご)かす。
見(み)るべし。事(こと)を喜(この)むは事(こと)を省(はぶ)くの適(てき)と為(な)すに如(し)かず、
多能(たのう)は無能(むのう)の真(しん)を全(まっと)くするに若(し)かざるを。
注釈
- 逸事(いつじ):世俗を離れた、風流で余裕ある楽しみ。例:釣りや田園の暮らし。
- 生殺の柄(へい):生かすも殺すも思いのままという支配力。釣りに潜む暴力性の象徴。
- 奕棋(えきき):囲碁のこと。見た目は上品でも、勝敗にこだわる心が争いを生む。
- 事を省くの適:物事を減らして、気楽で自然な境地に至ることが理想であるという意。
- 無能の真を全くする:「能力はないが、己の本質を守る」ことの価値を強調した言葉。
関連思想と補足
- 『論語』子罕第九:「君子は多からんや。多からざるなり」――多能は必ずしも理想ではない。
- 『老子』第四十八章:「道を為せば日に損す…」――引き算によって道に至るという無為の思想。
- 『菜根譚』後集第20・31・118条も、本項の思想と重なり合う。
原文:
水逸事也。尙持生殺之柄。
奕棋淸戲也。且動戰爭之心。
可見。喜事不如省事之爲適、多能不若無能之爲眞。
書き下し文:
水に釣るは逸事なり。なお生殺の柄を持つ。
奕棋は清戯なり。且つ戦争の心を動かす。
見るべし。事を喜ぶは、事を省くの適(てき)と為すに如(し)かず。
多能は、無能の真(しん)を全(まっと)うするに若(し)かざるを。
現代語訳(逐語/一文ずつ):
- 「水に釣るは逸事なり。なお生殺の柄を持つ」
→ 釣りはのんびりした娯楽だが、それでも生き物の命を奪う力を伴っている。 - 「奕棋は清戯なり。且つ戦争の心を動かす」
→ 囲碁・将棋は高尚な遊びであるが、勝ち負けを争うことで戦のような心を引き起こす。 - 「見るべし。事を喜ぶは、事を省くの適と為すに如かず」
→ これを見れば分かるように、何かを好んで行うよりも、無駄を省くことの方が心に適っている。 - 「多能は、無能の真を全うするに若かざるを」
→ 才能を多く持つことは、かえって本当の“無為自然の真”を保つことに劣る場合もある。
用語解説:
- 逸事(いつじ):本業ではない気晴らしや余暇の遊び・娯楽。
- 生殺の柄(せいさつのへい):生かすも殺すも自分の手にある、という力の象徴。
- 奕棋(えきき):囲碁や将棋など、知略を競う遊戯。
- 清戯(せいぎ):清らかで気品ある遊び。
- 省事(しょうじ):無駄なこと・過剰な行動を控え、簡素にすること。
- 為適(てきにする):心地よく、調和した状態にする。
- 無能の真(むのうのしん):あえて“無能”であろうとすることで本質に至る生き方。老荘思想に通じる概念。
全体の現代語訳(まとめ):
釣りのような娯楽も、実は命を左右する力を含んでいる。
また、囲碁のような高尚な遊びも、競争心を煽って戦争のような感情を呼び起こす。
これらを見れば、物事を喜んで取り組むよりも、あえて省いて控える方が心の安定につながる。
才能が多いことよりも、むしろ無欲・無為でいることの方が、真の境地に達することができるのだ。
解釈と現代的意義:
この章句は、**「静かな趣味や高尚な遊びに見えても、内面には欲望や争いが潜んでいる」**ことを鋭く指摘し、本質的な人生の態度は「省略・無為・自然」にあると説いています。
1. 「良さそうに見えるもの」には注意が必要
- どんなに無害そうに見える行為でも、そこに欲望や競争心が入り込むと本質が変質する。
- 見た目の上品さではなく、その行為の背後にある精神が重要。
2. 「控える」ことは“無”ではなく“知”の形
- 現代では「積極性」や「行動力」が賞賛されがちだが、何をやらないかを見極める力の方が、深い知性につながる。
- 賢さとは、「やれることを全部やる」ことではなく、「やらない勇気」にも宿る。
3. 「無能」に見えるが“本物”の人間
- あえて多芸を誇らず、目立たず、無為に見える人間のほうが、実は深い人間力を備えている。
- これは、道家思想における「無為自然」「無欲の大智」に通じる精神であり、現代の“目立たない賢者”像と重なる。
ビジネスにおける解釈と適用:
1. 「高尚な活動」もリスクをはらむ
- 社内のボードゲーム大会や、飲みニケーションなど一見健全なイベントでも、上下関係や対立感情を生むことがある。
→ 目的と空気感の見直しが必要。
2. 「できる人」ほど、やらない選択が重要
- 多能な人は、なんでも手を出してしまいがちだが、それがチームワークや自分の集中を妨げることも。
→ 「この件は任せよう」「あえて口出さない」ことが、真の力量。
3. “削ること”こそ組織の成熟
- 仕事の効率化、生産性の向上は、タスクを増やすより“省く”ことで実現することが多い。
→ 「省事の美学」=組織のシンプル化と本質回帰。
ビジネス用心得タイトル:
「控える力、削る知恵──“無為の美学”が真の力を生む」
この章句は、派手さや多能さを競うよりも、本質に徹する静けさの中にこそ、人格や真価が宿るという教訓を与えてくれます。
コメント