――真の自分とは何かを問い直すことから始まる
多くの人は、「我(わたし)」という存在を、あまりにも“確かなもの”として思い込みすぎている。
そのため、あれが欲しい、これは嫌だ――と、好き嫌いや欲望に支配され、煩悩がどんどん増えていく。
古人(陶淵明)は言った。
「“我”という意識すらなければ、そもそも“ものの価値”など分かるはずもない」
つまり、執着の出発点は“自分中心の視点”なのだと喝破した。
また彼はこうも言っている。
「この肉体、この現象としての“身”は“仮の我”であり、“真の我”ではない。
もしこの真実を理解していれば、欲望や悩みに苦しめられることもないだろう」と。
この洞察こそが、煩悩と苦しみから自由になる“真理を見抜いた言葉”である。
引用(ふりがな付き)
世人(せじん)は只(ただ)だ我(が)の字(じ)を認(みと)め得(え)ること太(はなは)だ真(しん)なるに縁(よ)るが故(ゆえ)に、
種種(しゅじゅ)の嗜好(しこう)、種種の煩悩(ぼんのう)多(おお)し。
前人(ぜんじん)云(い)う、「復(ま)た我(が)有(あ)るを知らざれば、安(いずく)んぞ物(もの)の貴(たっと)しと為(な)すを知らん」。
又(また)云う、「身(み)は是(こ)れ我(われ)ならざるを知らば、煩悩(ぼんのう)更(さら)に何(なに)ぞ侵(おか)さん」。
真(しん)に破的(はてき)の言(げん)なり。
注釈
- 我:自己。ここでは仏教的「無我」に対しての“自我”意識。執着の源とされる。
- 前人:陶淵明(とうえんめい)を指す。東晋末〜南朝宋の詩人で、自然とともに生きた隠逸思想家。
- 破的の言:的(まと)を射抜くような、真理を鋭く突いた言葉。
関連思想と補足
- 仏教では「無我」(アナートマン)の思想が中心的。
「我」と思い込んでいるものは、五蘊(色・受・想・行・識)の仮の集合にすぎないとする。 - 佐藤一斎『言志四録』でも、**「本然の真己」と「躯殻の仮己」**を分け、
真の自己に目覚めることの大切さを説いている。
真の己=天理、仮の己=私欲という対比は、本項の主張と一致する。 - 『老子』や『荘子』でも、「無我」「無欲」「無名」を重んじる思想が通底しており、
真の自由とは、自己という枠組みから解放されることによって得られるとされている。
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