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努力の果てに得られる、真の安らぎ


■ 引用原文(日本語訳)

修行僧はつとめはげむのを楽しみ、
放逸のうちに恐ろしさを見、
やすらぎの境地を体得する。
それはつくり出すはたらきの静まった安らかさである。

――『ダンマパダ』第四章「はげみ」第31節


■ 逐語訳(一文ずつ現代語訳)

  1. 修行僧(比丘)は、努力(精進)することに喜びを見出す。
     精進は義務ではなく、自らの心を鍛える悦びに満ちている。
  2. 怠惰(放逸)の中には、心を壊す恐ろしさを見ている。
     怠けることが自分を蝕むことを深く理解しているため、自制する。
  3. そして、やがて「やすらぎの境地」を体得する。
     心が動揺せず、苦しみから離れた穏やかな状態へと達していく。
  4. そのやすらぎとは、作り出す働き(形成作用)が静まった安らぎである。
     欲や妄想によって“作られた”世界から離れた、真に自然な静けさ。

■ 用語解説

用語解説
修行僧(比丘)仏の教えに従って心身を修める者。自己修練者全般にも通用する姿勢。
つとめはげむ(精進/ヴィーリヤ)持続的かつ意志的な努力。
放逸(プラマーダ)気の緩み、怠惰、注意散漫。精神的堕落をもたらす要因。
やすらぎの境地(涅槃、ニルヴァーナ)一切の欲望や苦悩から解放された完全な静けさ。
つくり出すはたらき(行/サンカーラ)煩悩により「自己」や「世界」を妄想的に形づくる働き。これが止むことを「無為」ともいう。

■ 全体の現代語訳(まとめ)

精進を人生の悦びとし、怠惰の怖さを自覚する修行者は、
次第に心のざわめきを鎮め、やがて深い安らぎへと至る。
その安らぎは、欲望や妄念によって作られた“偽りの自己”を手放し、
「ただあるがまま」の静けさと一致する境地である。


■ 解釈と現代的意義

この節が語るのは、「精進の果てにある“静寂と自由”」です。
現代では「安らぎ」といえば娯楽・休暇・気晴らしを思い浮かべがちですが、
ここで言われるやすらぎは、心を乱す根本原因そのものが沈黙した状態――
すなわち、“何かを成し遂げて得る満足”ではなく、
「成し遂げなければならない」という衝動すら鎮まった平安なのです。

それは、日々の努力によってこそ自然に訪れる、
「作為を捨てた心の静けさ」なのです。


■ ビジネスにおける解釈と適用

観点適用例
努力と成果の先にある「満ち足りた静けさ」成功を追い求めた果てに得られるのは、達成感ではなく「もう求めなくてよい」という内なる静けさ。
行動することでしか得られない心の安定怠けやごまかしを重ねた人には、決して手に入らない「安らぎ」。誠実な行動がその鍵となる。
思考停止ではない沈黙の力「つくられた自己像」や過剰な役割意識から離れ、本当の意味でリラックスできる状態を持つことは、ビジネスパーソンの持続力を高める。
燃え尽きではなく、燃え尽きることのない静けさ精進の果てには、燃え尽きではなく「もう焦らなくていい」という自由がある。

■ 心得まとめ

「求めることをやめたとき、真のやすらぎが訪れる」

努力を楽しみ、怠惰を恐れて歩んだ者は、
やがて欲も不安も越えた、深く澄んだ静けさに至る。
それは“何かになろう”とする努力ではなく、
“ただ在る”ことに目覚めた、究極の安らぎである。


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