燕の混乱と斉の失政に関して、孟子を弁護しようとした佞人・**陳賈(ちんか)**は、前章で周公の事例を引き合いに出して斉王の非を軽くしようとした。
それを受けて、彼は孟子に直接問いかける:
「周公とは、どのような人物ですか?」
孟子は「古の聖人である」と答える。
続けて陳賈は畳みかけるように尋ねる:
「周公は兄・管叔を殷の監督官に任命しましたが、管叔は殷と結んで反乱を起こしました。これは事実ですか?」
孟子は「その通りだ」と答える。
「では、周公は最初から管叔が謀反を起こすと知っていて任命したのですか?」
孟子は明確に否定する――「知らなかったのだ」。
ここで陳賈は勝ち誇ったように言う。「つまり、聖人であっても過ちを犯すのですね?」
孟子はその狙いを見抜き、たたみかけるように君子の過ちに対する姿勢を語る。
誤りを認め、すぐに正すのが「古の君子」
孟子は、周公が兄・管叔を信じたのは当然であり、弟が兄を信頼するのは人情であると説明する。
その上でこう述べる:
「古の君子は、過ちを犯せばすぐに改めた。
その過ちはあたかも日食・月食のように人々の目に明らかだったが、
改めることで、かえって人々の尊敬を集めた」
つまり、君子の真価は過ちを犯さないことではなく、それを認めてすぐに正すところにある。
今の為政者たちへの批判
孟子は話をさらに続けて、今の「君子」と称される人々を痛烈に批判する:
「今の君子は、過ちがあってもそれに“順う”。
それどころか、言い訳をこしらえて、自己弁護をする始末だ」
これは明らかに、陳賈のような佞人たち――過ちを取り繕い、君主の気をそらす者たちへの批判であり、
孟子自身が理想とするまっすぐな誠の道とは対照的である。
この章句は、過ちをどう扱うかが「人格と政治の質」を決めるという孟子の核心思想を明確に表しています。
過ちを「隠す者」ではなく「さらして改める者」こそが、民に信頼され、天に仰がれる――それが孟子の理想とする「君子」なのです。
原文
見孟子問曰:「周公何人也?」
曰:「古之聖人也。」
曰:「使管叔監殷,管叔以殷畔也,有諸?」
曰:「然。」
曰:「周公知其將畔,而使之與?」
曰:「不知也。」
曰:「然則聖人且有過與?」
曰:「周公弟也,管叔兄也。周公之過,不亦宜乎?」
且古之君子,過則改之;今之君子,過則順之。
古之君子,其過也,如日月之食,民皆見之;其更也,民皆仰之。
今之君子,豈徒從順之,又從為之辭。
書き下し文
孟子に見えて問うて曰く、
「周公は何人(なんびと)ぞや。」曰く、
「古の聖人なり。」曰く、
「管叔をして殷を監せしめしに、管叔は殷を以て畔(そむ)けり。
そのこと有りや。」曰く、
「然り。」曰く、
「周公は、その将に畔かんとするを知りて、而してこれを使わしめしか。」曰く、
「知らざるなり。」曰く、
「然らばすなわち、聖人すら且(か)つ過ち有るか。」曰く、
「周公は弟なり、管叔は兄なり。
周公の過ち、また宜(むべ)ならずや。」かつ、古の君子は、
過てばすなわちこれを改む。今の君子は、
過てばすなわちこれに順う。古の君子の過ちは、
日月の食(しょく)のごとし。民みなこれを見たり。これを改むるにおよんでや、民皆これを仰ぐ。
今の君子は、
あにただこれに順うのみならんや。
また従ってこれが辞(ことば)を為す。
現代語訳(逐語/一文ずつ訳)
- 「ある人が孟子に聞いた:周公とはどんな人物ですか?」
- 「孟子は答えた:古代の聖人です」
- 「では、周公は管叔に殷を監督させたが、管叔は反乱を起こした。これは事実ですか?」
- 「孟子は:そうです、と答えた」
- 「周公は管叔が反乱を起こすと知りながら任命したのですか?」
- 「孟子は:いいえ、知りませんでした」
- 「それなら、聖人でも過ちを犯すのですか?」
- 「孟子は:周公は弟であり、管叔は兄であった。そういう関係ゆえに起きた過ちならば、むしろ理解できる」
そして孟子は続けてこう説いた:
- 「古の君子は、過ちを犯せば必ずそれを正した」
- 「だが今の君子は、過ちをそのまま受け入れてしまう」
- 「古の君子の過ちは、日食や月食のように、誰の目にも明らかだった」
- 「しかし、それを改める様子もまた人々に尊敬されるものだった」
- 「今の君子は、ただ従うだけでなく、さらに過ちを正当化する言い訳まで作ってしまう」
用語解説
- 周公:周王朝の賢臣。孔子が理想とする政治家。礼楽制度の整備者。
- 管叔:周公の兄。殷の地を監督していたが、反乱を起こした。
- 聖人:道徳的に最高の理想像を体現した人。
- 日月之食:日食・月食。誰の目にも見える自然現象で、古代では神意の現れとされた。
- 過則改之:誤りを認めたらすぐに改める態度。
- 順之:従ってそのまま流される。何も改めない。
- 爲之辭:過ちを正当化する言い訳。
全体の現代語訳(まとめ)
ある人が孟子に「周公とはどんな人物か」と尋ねた。孟子は「古代の聖人だ」と答えると、その人は「では、なぜ反乱を起こした管叔を任命したのか?」と問い詰める。
孟子は、「それは知らなかったことだ」と説明し、「だからといって周公の人格を全否定する必要はない」と述べる。
さらに孟子は、古代の君子は誤りを認めて必ず改めたが、今の人々は過ちを受け入れてしまうだけでなく、その過ちを正当化する理屈まで作ると厳しく批判した。
解釈と現代的意義
この章句は、**「過ちにどう向き合うか」**という人間の根本的な態度を問うものです。
孟子が伝えたいのは以下のような価値観です:
- 過ちを犯さない人間などいない。
聖人である周公でさえ誤ることはある。 - だが、重要なのは「誤った後の行動」。
- 改めるのか?
- それともごまかすのか?
- 真の君子は、人々の目に見える過ちであっても、正直に認め、改めることで尊敬を集める。
- 現代の人間は、過ちを隠そうとし、弁解を用意することで、自らの誠実さを失っている。
この言葉は、まさに現代にも通じる、自己弁護と自己改革の分かれ道を示してくれます。
ビジネスにおける解釈と適用
「完璧でなくてもよい。重要なのは“修正力”」
- ミスを犯さない人間はいない。
- だが、ミスを認めず言い訳をすれば、信頼は致命的に失われる。
「上司こそ、間違いを“見せて正す”ことで信頼を得る」
- 周囲の部下は、リーダーの修正態度を見ている。
- 正しさではなく、“誠実さと透明性”が組織を支える。
「言い訳文化から、改善文化へ」
- 「前任がやったから」「仕方なかった」はもはや通用しない。
- 古の君子のように、「誰の目にも見える過ち」を堂々と改めることでこそ、組織の“品格”が立つ。
まとめ
「過ちを隠すな──“改める勇気”が君子の証」
この章句は、誤りを恥じることなく、誠実に認めて行動で示すことこそが、信頼と尊敬を得る唯一の道であると説いています。
人間関係・組織運営・リーダー教育において、永遠に通用する金言です。
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