孟子は、舜が弟・象の言葉に「本当に」喜んだ理由を、道理の視点から説明する。
人の言葉が道にかなっているかどうかが、信じるか否かの分かれ目である。
たとえ相手が裏で欺いていたとしても、表向きに「兄を慕って来た」という言葉が道理にかなっていれば、君子はそれを信じて受け入れる。
それは偽りではない――真に、理に従った信であり、喜びである。
原文と読み下し
曰(いわ)く、然(しか)らば則(すなわ)ち舜(しゅん)は偽(いつわ)りて喜(よろこ)べる者か。
曰く、否(いな)。
昔者(むかし)、生魚(せいぎょ)を鄭(てい)の子産(しさん)に饋(おく)る者有り。子産、校人(こうじん)をして之(これ)を池(いけ)に畜(やしな)わしむ。
校人、之を烹(に)る。反命して曰く、「始(はじ)め之を舎(お)けば、圉圉焉(ぎょぎょえん)たり。少(しばら)くして則(すなわ)ち洋洋焉(ようようえん)たり。攸然(ゆうぜん)として逝(ゆ)けり」と。
子産曰く、「其(そ)の所(ところ)を得(え)たるかな、其の所を得たるかな」と。
校人、出でて曰く、「孰(たれ)か子産を智(ち)なりと謂(い)う。予(われ)、既に烹て之を食(くら)えり。曰く、『其の所を得たるかな』と」。故に君子(くんし)は欺(あざむ)くに其の方(ほう)を以(もっ)てすべし。罔(あざむ)うるに其の道(みち)に非(あら)ざるを以てし難(がた)し。
彼(か)の兄を愛するの道を以て来たる。故に、誠(まこと)に信(しん)じて之を喜(よろこ)ぶなり。奚(なん)ぞ偽(いつわ)らんや。
解釈と要点
- 舜は、象が兄を慕うという「表の言葉」が道にかなっていたから、信じて受け入れ、喜んだ。
たとえ象の心中に別の意図があったとしても、それを根拠に拒むことはしなかった。 - 孟子は、道理に合ったふるまいには信で報いるのが君子の態度であり、それがたとえ外見上“騙された”結果になったとしても問題ではないと説く。
- 魚を池に放ったと信じた子産のように、「信じるに足る理由」があれば、君子はその態度を貫く。
- ここには孟子の倫理観――**「内実よりも、道に適っているか」**が最も重んじられる価値基準が表れている。
注釈
- 子産(しさん):春秋時代、鄭の政治家で、清廉で有名。孟子もしばしばその政治を称賛する。
- 校人(こうじん):池や沼などの管理を担当する役人。
- 圉圉焉(ぎょぎょえん):じっとしている様子。初めて環境に置かれた時の慎重さ。
- 洋洋焉(ようようえん):のびのびとした様子。自由に生きることへの喩え。
- 欺くに其の方を以てすべし:道にかなった方法であれば、人は欺かれることがあってもよいという意。
パーマリンク(英語スラッグ)
true-joy-follows-the-way
→「真の喜びは“道”に従ってこそ」という意味を的確に表現しています。
その他の案:
not-deceived-by-the-heart
(心では欺かれない)trust-in-righteous-intent
(正しい意図にこそ信を)wisdom-of-trusting-the-way
(道に従う信の知恵)
この章は、舜の徳における“寛容と信頼”の核心部分であり、君子の判断基準を鮮やかに示しています。
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