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わがもの無くして、憂いもなし――真の自由人


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📖 原文引用(『ダンマパダ』第二五章 第367偈)

名称とかたちについて「わがもの」という思いが全く存在せず、
何ものも無いからとて憂えることの無い人、
その人こそ〈修行僧〉と呼ばれる。

(原文:
Yo mukhasaṃyato bhikkhu,
patisanthāratī jano,
nāma-rūpāni sabbāni,
anissito na socati.

―『Dhammapada』Ch. 25, v.367)

※原文は複数の伝承に異動あり。一部構文は再構成されることがあります。


🔍 逐語訳(逐文・簡潔)

  • Nāma-rūpāni sabbāni:名称と形(すべての存在・現象)を
  • Anissito:依存せず(「わがもの」と執着せず)
  • Na socati:嘆かない・悲しまない者
    → そのような人を、修行僧(bhikkhu)と呼ぶ。

📘 用語解説

  • 名称と形(nāma-rūpa):あらゆる現象や存在の構成要素。「名前(観念)」と「形(物質)」によって世界が成り立つとする仏教の基礎概念。
  • 「わがもの」という思い(執着):自分の所有物、自分のアイデンティティ、自分の成果などに対する固執心。
  • 何ものも無いことの憂い:失うこと・持たないことに対する不安や虚無感。
  • 修行僧(bhikkhu):出家者に限らず、「真理を求め、自我を超えた者」として象徴的に理解できる。

🗣️ 全体の現代語訳(まとめ)

物の名前や形に「自分のものだ」と思うことがなく、
何かを所有していないことに対しても悲しむことのない者――
そのような人こそ、真の修行者と呼ばれる。


🧭 解釈と現代的意義

この偈は、「所有への執着」や「欠如感による苦しみ」から解放された心のあり方を示しています。
私たちは、「これは自分のものである」「これは自分にふさわしい」とラベルを貼ることで、自己の価値を確かめようとします。しかしその欲望が裏切られたとき、怒りや憂いが生じるのです。
しかし、そもそも「何も持っていなくても、それでよい」と思える人こそが、本当の意味で自由であり、心が安らいでいるのです。


💼 ビジネスにおける解釈と応用

観点応用・実践例
所有からの自由地位・役職・名刺・肩書に執着せず、自分の価値を「存在の深さ」から確信する。
損得からの解放損をした・得をしたという短期的視点から離れ、「本質的にどうありたいか」を重視する判断を持つ。
過去の栄光・失敗かつての成功や失敗に自我を重ねるのをやめ、今この瞬間の行動に集中する。
不安・不足感への対処物・成果・賞賛に依存せず、自己の軸と納得に基づいて動く力が、ストレス耐性と持続力を育む。

🧠 心得まとめ(ビジネスパーソン向け)

「持たなくても、失っても、人は尊い――それを知る者は、真に強い」
地位や財産、他人の評価にアイデンティティを預ける限り、私たちは不安と競争の渦に巻き込まれる。
だが、「何も所有していなくても自分は揺るがない」と思える心こそが、現代における最高の自由であり、本物のプロフェッショナルの器である。


この偈は、精神的な自由と成熟を象徴する極めて深遠な教えです。

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