目次
■引用原文(日本語訳)
しかし福徳と罪悪とを捨て、清らかな行ないをなし、ひととの交りを捨てて行じている人、
かれこそ〈長老〉とよばれる。
―『ダンマパダ』第11章 第12偈
■逐語訳
- 福徳と罪悪とを捨て(pāpañca puññañca):善(福)と悪(罪)の両方の執着を手放し、
- 清らかな行ないをなし(ubho saṅgaṁ pahāya):あらゆる執着から離れ、純粋な行為に徹し、
- ひととの交りを捨てて行じている人(samaṇo sūci):煩悩や世俗的関係を離れ、静かに修行する者は、
- かれこそ〈長老〉とよばれる(so ‘va’ brāhmaṇo, so bhikkhu, so samaṇo, so thero):まさにその人こそが、バラモン(聖者)、修行僧(比丘)、実践者(サマナ)、そして〈長老〉と呼ばれるにふさわしい。
■用語解説
- 福徳(puñña)と罪悪(pāpa):善行と悪行のいずれにも執着しないこと。報いの追求を超越した心の境地。
- 交わりを捨てる(saṅgaṁ pahāya):対人関係の中で生じる煩悩・執着・比較・欲望を離れること。
- 清らかな行ない(sūci):心身が澄み、偽りのない、誠実な行動の積み重ね。
- 長老(thera):年齢に関係なく、内面的成熟と行動の清らかさを備えた者への称号。
■全体の現代語訳(まとめ)
仏陀はここで、「真に尊敬される者(長老)とは、年齢や外見ではなく、善悪の執着から自由であり、清らかな行為を実践し、人との関係性に執われずに静かに生きている者である」と明確に述べています。
■解釈と現代的意義
この偈は、**「本質的な自由と清らかさを得た者こそが成熟者である」**という仏教の理想像を示しています。
善いことをして評価を得たいという執着もまた、「我欲」に他なりません。真に成熟した人は、善悪の評価・他人との関係性・欲求からも自由になり、ただ「正しくある」ことを目指します。
現代社会の“評価社会”や“つながり疲れ”の中で、この偈は静かに自立した心の在り方を指し示しています。
■ビジネスにおける解釈と適用
観点 | 現代ビジネスでの適用例 |
---|---|
評価や実績への執着 | 成果や称賛を追いすぎると、心が乱れ、本質から逸れる。淡々と正しい行為を積むことが長期的成果に結びつく。 |
本当のリーダー像 | 周囲からの人気や肩書きではなく、誠実で静かな実践を積む人が真に信頼される。 |
自立的な働き方 | 人間関係に依存せず、自分の判断と倫理観に従って仕事を進められる人は、変化の時代において安定した強さを持つ。 |
無欲の行動原理 | 「どう見られるか」ではなく、「何が正しいか」を基準とする行動が、結果として深い信頼と影響力を生む。 |
■心得まとめ
「称号ではなく、清らかな心と行いが人を尊くする」
仏陀は、年齢でも名声でもなく、「何にも執われず、正しく清らかに生きる人」こそが、〈長老〉すなわち“成熟者”であると説いています。
現代の私たちもまた、成果や評判、人間関係の渦に飲み込まれずに、誠実に、静かに、自らの道を歩むことが、本当の成熟・信頼・影響力につながるのです。
コメント