弟子の公孫丑は孟子に尋ねた。「『詩経』には『素餐せず(功もないのに食べてはならない)』とあります。では、君子が自ら耕作もせず、君主から禄を受けて生活しているのはなぜでしょうか?」
孟子はこれに対して、こう答えた。君子がその国に住んでいることで、君主が彼を用いれば、その政治は安定し、国は富み、名声を得る。さらに、その国の若者たちが君子に学べば、孝や悌の心を身につけ、忠信の徳を育むようになる。それこそが真の功であり、最も価値ある貢献である。ただ耕さないという理由で禄を受け取る資格がないというのは、目に見える労働だけを功とする短絡的な考え方である。
「公孫丑曰く、詩に曰う、『素餐せず』と。君子の耕さずして食うは、何ぞや。孟子曰く、君子の是の国に居るや、其の君之を用うれば、則ち安富尊栄に、其の子弟之に従えば、則ち孝悌忠信なり。素餐せざること、孰れか是より大ならん」
「詩経には『何の功もないのに禄を受けてはならない』とある。だが、君子がその国にいることで君主は安定し、若者は徳を学ぶ。これ以上に価値ある貢献があるだろうか。君子が禄を受けるのは当然なのだ」
孟子は、目に見える労働だけでなく、人に徳を教え、社会全体の道徳的水準を高めることもまた、立派な貢献であり、その功は極めて大きいと説いている。
※注:
「素餐(そさん)」…功もないのに禄を受けること。徒食、ただ飯食らい。
「孝悌(こうてい)」…親に孝行し、兄弟に従順であること。儒教の基本的徳目。
「忠信(ちゅうしん)」…主君に忠義を尽くし、誠実であること。
『孟子』公孫丑章句上より
1. 原文
公孫丑曰、詩曰、不素餐兮。君子之不耕而食、何也。
孟子曰、君子居是國也、其君用之、則安富尊榮、其子弟從之、則孝悌忠信。
不素餐兮、孰大於是。
2. 書き下し文
公孫丑(こうそんちゅう)曰く、「詩」に曰(いわ)く、「素餐(そさん)せず」と。君子の耕(たがや)さずして食(くら)うは、何ぞや。
孟子曰く、君子、この国に居(お)るや、君(きみ)之(これ)を用(もち)うれば、則(すなわ)ち安富(あんぷ)尊栄(そんえい)にして、子弟(してい)之に従(したが)えば、則ち孝悌(こうてい)忠信なり。
素餐せざること、孰(いず)れか是より大なる。
3. 現代語訳(逐語/一文ずつ訳)
- 「詩経に『むさぼり食うな(=ただ食らうな)』とある。君子が耕さずに食べているのはなぜか?」
→ 働かずに食べることを非難する詩に照らせば、君子が直接農業も商売もしないのに食べているのはおかしくないか? - 「孟子は答えた:君子がその国に住むとき、君主がその人物を登用すれば、政治が安定し、民は富み、国家に栄光がもたらされる。」
→ 君子の存在は、国家に秩序と繁栄をもたらす。 - 「また、子弟がその人物に従えば、孝・悌・忠・信の徳を学び身につけるようになる。」
→ 君子は模範となり、後進の徳育を推進する力を持つ。 - 「これほど社会に貢献すること以上の“素餐しないこと”が他にあろうか。」
→ 食うに値する働き・存在意義として、これ以上のものはない。
4. 用語解説
- 素餐(そさん):働かずに食べること。無為無益な生活、口先だけで実行のない状態を批判する言葉。
- 詩(し):『詩経』。儒教において五経のひとつとされる古典詩集。道徳や規範を詠む。
- 君子(くんし):人格・教養・道徳を備えた理想の人物。儒家の理想的人間像。
- 耕す(たがやす):農業を営む。ここでは「直接生産的労働」を象徴。
- 安富尊栄(あんぷそんえい):国家や社会の平和・経済の安定・威厳のある統治。
- 孝悌忠信(こうていちゅうしん):孝=親への孝行、悌=兄弟間の敬愛、忠=主君への誠、信=人との約束を守る心。儒教の徳目。
5. 全体の現代語訳(まとめ)
公孫丑が尋ねた:
『詩経』には「働かずに食べるな」とあるのに、君子は農作業もせずに食べている。これは矛盾ではないか?
孟子は答えた:
君子が一つの国に住んでいて、その人物が君主に登用されれば、政治は安定し、国は富み、名誉と尊敬がもたらされる。
また、その人物に従う若者たちは、孝行・兄弟愛・忠義・誠実といった徳を身につけるようになる。
こうした社会的な貢献を考えれば、「働かずに食べている」とは到底言えない。これ以上の「素餐せぬ」例があろうか。
6. 解釈と現代的意義
この章句は、孟子が「労働の価値とは何か」「社会的貢献とは何か」を本質的に問うものです。
- 労働=直接的な生産だけではない
→ 身体を使って耕すことだけが“働く”ことではない。精神的・道徳的指導、社会秩序への貢献もまた立派な“労働”である。 - リーダーの存在は社会に無形の価値をもたらす
→ 君子は、その存在自体が社会に秩序・倫理・規範・文化を浸透させ、若者の育成にも大きく寄与する。 - 形式的な“働いている感”より、本質的な“社会への効用”を重視せよ
→ 手を動かすだけが仕事ではなく、価値を創出し、他者を動かす知的・人格的影響力もまた貢献の形である。
7. ビジネスにおける解釈と適用
✅ 「“見えない貢献”が真の仕事である」
リーダー・マネージャー・経営者は、数字や作業量では測れない“空気を整える力”“理念を示す力”を持っている。それもまた尊い労働である。
✅ 「教育・育成は“生産活動”である」
部下や後進を育てる、信頼をつくる、企業文化を浸透させるといった行為は、生産に直結しないようでいて、組織の未来を支える本質的行為。
✅ 「立場と影響力のある人は、“素餐”の疑念を超える存在であれ」
会議に出ているだけ、指示しているだけのように見られないよう、日々の行動・発信・徳をもって、影響力のある貢献者であるべき。
8. ビジネス用の心得タイトル
「働かずして貢献せよ──“素餐にあらず”を証明するリーダーシップ」
この章句は、行動の見える/見えないを問わず、社会的・道徳的価値を発揮する者こそ真に貢献する者であるという孟子の力強いメッセージです。
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