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民が満ち足りてこそ、最大の祥瑞(しょうずい)

真の吉兆とは、芝草や鳳凰などの奇異な現象ではない。
それよりも、天下が治まり、民が豊かに暮らす――この現実こそが、最も尊ぶべき「祥瑞」であると太宗は語った。
形式や迷信に惑わされることなく、公正で実利ある政治を重んじるべきだという強い姿勢が、そこにはある。

かつての堯や舜の時代、人々は君主を天地のように敬い、父母のように慕った。
それは、土木工事や命令であっても、民が喜んで従ったからにほかならない。
まさに民の心を得て治まる国家が、最大の吉兆である――太宗はそう断言し、今後はいちいち祥瑞の報告は不要だと述べた。

「芝草(しそう)街衢(がいく)に徧(あまね)く、鳳凰(ほうおう)苑囿(えんゆう)に巣(す)くうと雖(いえど)も、亦(また)桀(けつ)・紂(ちゅう)に異(こと)なること何(なん)ぞ有(あ)らん」
外見的な瑞兆があっても、民が困窮していれば、暴君の時代と変わらない――その真理を忘れてはならない。


原文(ふりがな付き)

貞觀(じょうがん)六年、太宗(たいそう)、侍臣(じしん)に謂(い)いて曰(いわ)く、
「比(このごろ)衆議(しゅうぎ)を見(み)るに、祥瑞(しょうずい)を以(もっ)て美事(びじ)と為(な)し、頻(しき)りに賀慶(がけい)を表(ひょう)す。
如(も)し本心(ほんしん)に如(し)かば、但(ただ)天下(てんか)太平(たいへい)にして、家(いえ)に給(た)り人(ひと)に足(た)らしめば、
たとえ祥瑞無(な)くとも、亦(また)堯(ぎょう)・舜(しゅん)に比(くら)ぶべき徳(とく)有(あ)らん。
若(も)し百姓(ひゃくせい)足(た)らず、夷狄(いてき)侵(しん)すれば、縱(たと)い芝草(しそう)街衢(がいく)に徧(あまね)く、鳳凰(ほうおう)苑囿(えんゆう)に巣(す)くうと雖(いえど)も、亦(また)桀(けつ)・紂(ちゅう)に異(こと)なること何(なん)ぞ有(あ)らん。
嘗(かつ)て聞(き)く、石勒(せきろく)の時、郡吏(ぐんり)有(あ)りて連理木(れんりぼく)を燃(た)き、白雉(はくち)の肉(にく)を煮(に)たりと。豈(あ)に明主(めいしゅ)と称(しょう)すべけんや。
又(また)隋文帝(ずいぶんてい)は祥瑞を深(ふか)く愛(あい)し、祕書監(ひしょかん)王劭(おうしょう)に命(めい)じて衣冠(いかん)を著(ちゃく)せしめ、朝堂(ちょうどう)に在(あ)って考使(こうし)に対(たい)し香(こう)を焚(た)きて『皇隋感瑞経(こうずいかんずいきょう)』を読(よ)ませたること、旧(もと)より伝(でん)に見(み)たり。実(じつ)に笑(わら)うべきことと為(な)す。
夫(そ)れ人君(じんくん)たる者(もの)、当(まさ)に至公(しこう)を以(もっ)て天下(てんか)を理(おさ)め、万姓(ばんせい)の懽心(かんしん)を得(え)んことを須(もち)うべし。
堯・舜(ぎょう・しゅん)上(かみ)に在(あ)るとき、百姓(ひゃくせい)は之(これ)を敬(けい)して天地(てんち)の如(ごと)く、之(これ)を愛(あい)して父母(ふぼ)の如(ごと)くす。
動作(どうさ)して事(こと)を興(おこ)すも、人(ひと)皆(みな)之(これ)を楽しみ、号(ごう)を発(はっ)し令(れい)を施(ほどこ)すも、人(ひと)皆(みな)之(これ)を悦(よろこ)ぶ。此(こ)れ是(これ)大(だい)祥瑞(しょうずい)なり。
自此(これ)より後(のち)、諸州(しょしゅう)に祥瑞(しょうずい)有(あ)るも、並(なら)びに申奏(しんそう)を用(もち)うること無し」


注釈

  • 祥瑞(しょうずい):自然現象や霊的な兆しで、吉兆とされるもの(例:鳳凰、芝草など)
  • 芝草(しそう):瑞草の一種。出現は吉兆とされた。
  • 連理木(れんりぼく):木の枝が絡み合って一本になる木。縁起がよいとされた。
  • 白雉(はくち):白い雉。これも吉兆の象徴。
  • 皇隋感瑞経:隋代に作られた、瑞兆を集めて称える儀式用の経書。
  • 懽心(かんしん):喜びの心、満足する心。

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