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汚すのも清めるのも、己ひとりの責任


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■引用原文(日本語訳)

『ダンマパダ』第十二章「自己」第165偈

「みずから悪をなすならば、みずから汚れ、
みずから悪をなさないならば、みずから浄まる。
浄いのも浄くないのも、各自のことがらである。
人は他人を浄めることができない。」


■逐語訳

  • 悪をなせば(pāpaṃ karoti attanā)
  • **自己が汚れる(attānaṃ dūsati)
  • 悪をなさねば(na karoti pāpaṃ)
  • **自己が浄まる(attānaṃ visodhaye)
  • 清らかも不浄も(suddhi asuddhi)
  • **各人の責任(attano va)
  • 他人を清めることはできぬ(na añño aññaṃ visodhaye)

■用語解説

  • 自己を汚す(attānaṃ dūsati):内面的な穢れ、罪、煩悩が自らの心と行いを曇らせる。
  • 自己を浄める(attānaṃ visodhaye):善行・自省・努力によって、心身の調和と清らかさを実現すること。
  • 浄い・浄くない(suddhi, asuddhi):道徳的・精神的な純粋さや不純さのこと。
  • 各自のことがら(attano va):「自分の内のこと」「他人に依らず自分で決まること」の意。
  • 人は他人を浄められない(na añño aññaṃ visodhaye):自分の意志と実践なくして、他人の手で清められることはない。

■全体の現代語訳(まとめ)

自分で悪をなせば、自分自身を汚すことになり、
自分で悪を避ければ、自分自身が清らかになる。
清らかさも汚れも、すべて自分自身にかかっている。
他人が自分を清めることはできないのだ。


■解釈と現代的意義

この偈は、仏教の核心的な倫理観である「自己責任」と「自己修養」の原則を明示しています。
他人がどれほど善導しても、自分が悪を選べば自らを汚すだけ。
また、他人に救ってもらおうと期待しても、自分自身が変わらなければ浄化は不可能です。

これは、内省・行動・動機を日々問う姿勢こそが真の浄化であると語るものです。


■ビジネスにおける解釈と適用

観点解釈・適用例
自己責任の原則ミスや失敗の本質は、他人のせいではなく、自分の判断や行動にあると受け止める謙虚さが成長を生む。
他責思考からの脱却「上司が悪い」「制度が悪い」ではなく、自分にできること・変えられることに集中すべき。
評価や信頼の正体他人からの評価ではなく、自分の内面における誠実な努力と選択こそが、自身を清める力になる。
組織文化への応用「環境が悪い」と言う前に、自分がその環境の中で何をしているかを見つめ直すことが、文化変革の一歩。

■心得まとめ

「清める者は、外ではなく己の心」

悪を選び、言い訳を積み重ねる者は、自らの手で自らを曇らせている。
清らかさとは、他人から与えられるものではない。
日々の選択、日々の行為の積み重ねこそが、心の鏡を磨く道。
人生も仕事も、「自分の手で、自分を整える」その覚悟がすべての基礎になる。


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