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快も罪も越えて、清く賢く歩む者こそ、本当の修行者


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📜引用原文(日本語訳)

一九*
この世の福楽も罪悪も捨て去って、清らかな行ない*を修め、よく思慮して世に処しているならば、かれこそ〈托鉢僧〉と呼ばれる。
― 『ダンマパダ』 第二章 第十九偈


🔍逐語訳(文ごとの意訳)

  • この世の福楽も罪悪も捨て去って:快楽(享楽的満足)も、罪(悪行や不正)も等しく手放し、
  • 清らかな行ないを修め:身体・言葉・心の三業(さんごう)を清らかに保ち、戒律を守り、誠実に生き、
  • よく思慮して世に処しているならば:軽率に流されず、熟慮をもって社会や人々の中で立ち振る舞っているならば、
  • かれこそ〈托鉢僧〉と呼ばれる:そのような者こそが、本当に出家修行者と呼ぶにふさわしい。

📚用語解説

用語解説
福楽世俗的な快楽、贅沢、肉体的な喜び。短期的満足の象徴。
罪悪道徳的・倫理的に過ちである行為。仏教では「悪業」とも。
清らかな行ない他者を傷つけず、執着に溺れず、内外ともに節度ある振る舞いを保つこと。
思慮深く処する感情的にならず、短絡的な判断を避け、冷静に観察して行動すること。
托鉢僧(修行僧)出家して、最低限の生活を送りながら精神的修行に専念する人。

🪞全体の現代語訳(まとめ)

世の中の快楽にも罪悪にも囚われず、
清らかな行いを保ち、深く考えて正しく世の中に関わっているならば、
その人こそが真に修行を果たす者、托鉢僧と呼ぶにふさわしい。


🧠解釈と現代的意義

この偈は、**「両極端を手放し、中道を生きる」**ことの大切さを説いています。
仏教は、快楽にも苦行にも偏らず、**清らかで思慮深い中庸の道(中道)**を重んじます。

世俗的な快楽を追うことも、罪や過ちに流されることもどちらも心を乱し、
修行とはそのどちらからも自由になり、心の静けさと品位を保つ生き方を意味します。


💼ビジネスにおける解釈と適用

観点実践への応用例
報酬や名誉に流されない精神成果や称賛に左右されず、使命感と誠実さを持って仕事に取り組む姿勢が、信頼と尊敬を集める。
倫理的行動と持続的成功法や規範を守り、短期的な利益に惑わされず行動することで、企業や個人として長期的な信頼を築ける。
感情ではなく思慮で判断する力衝動的・感情的判断ではなく、全体を俯瞰して冷静に意思決定を行う能力が、組織の安定に貢献する。
バランス感覚と謙虚さ何かに偏りすぎないバランス感覚と、周囲の声に耳を傾ける謙虚さが、現代のリーダーシップの核となる。

✅心得まとめ

「快にも罪にも心を染めず、清く賢く歩む者が、真に尊い」

人はしばしば快楽に耽り、あるいは過ちに陥る。
しかし、それらを超えて、思慮と清らかさをもって生きる者こそが、
本当に信頼され、敬われる“現代の修行者”なのだ。

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