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移ろうものに自己を重ねれば、心もまた揺らぐ

人は知らず知らずのうちに、「自分でないもの」と自分とを結びつけてしまう。
それが、感情や外見であれ、所有物や社会的地位であれ、自分の一部だと思い込んだ瞬間から、心は揺らぎはじめる。

たとえば、「私は若々しい」と思うならば、老いは自分の否定となる。
鏡に映る変化に怯え、人の視線に不安を覚えるようになる。
その「若さ」を失うたびに、自分が何かを失ったような喪失感が襲いかかる。

「私は高級車のオーナーだ」と思えば、その車に傷がつくたび、所有が失われるたび、
心はざわつき、「自分の価値が損なわれた」と感じてしまう。
本来、車はただの物であるにもかかわらず、心がその物に依存してしまうのである。

「私は社長である」と思えば、肩書が揺らぐたびに、自信と存在意義が揺らぎ始める。
役職を失えば、自分を失うような錯覚に囚われる。
「自分」を「社長」という形に重ねたことで、自らを立場の奴隷として縛ってしまう。

こうして、人は「変化するもの」に「変わらぬ自己」を重ねてしまう。
だが、世のすべては変化する。外見も、物も、立場も、感情も。
変わるものに自分を置けば、変わるたびに苦しむことになる。

インド哲学が説くように、私たちの本質は「アートマン」である。
それは、存在そのものであり、意識そのものであり、至福の静けさに満ちたもの。
変わるものの背後に在り、ただ見ている存在。そこにこそ、真の「私」がある。

だからこそ、見かけ、所有、役割に「私」を仮託してはならない。
それらを味わいつつも、それにとらわれるな。
とらわれれば苦しみとなり、離れれば自由となる。

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