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行ないの芯が汚れていては、実りは来たらず


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■引用原文(日本語訳)

その行ないがだらしがなく、その修養が汚れていて、清らかな行ないなるものも完全に清らかでないならば、大きな果報はやって来ない。
―『ダンマパダ』第11章 第3偈


■逐語訳

  • 行ないがだらしがなく(kusīto ca viharati):怠惰で気の緩んだ行動をしている者は、
  • 修養が汚れていて(makkhī sāsanadūsako):その修行(教えの実践)自体が不純なものである。
  • 清らかな行ないなるものも完全に清らかでない(suci kammesu sārajjaṁ):表面的に善行をなしていても、内面が揺らいでいれば、それは完全に清らかとは言えない。
  • 大きな果報はやって来ない(mahantaṁ phalamajjhaga):そのような状態では、偉大な功徳や果報は得られない。

■用語解説

  • 行ない(kamman):行為・行動だけでなく、心のはたらきや意志を含む。
  • 修養(sāsana):仏陀の教えを学び、自己鍛錬を行う実践全体。単なる知識の習得ではない。
  • 清らかさ(suci):動機・方法・心のあり方の純粋性を指す。
  • 果報(phala):因果応報の果。行為によって得られる精神的・現実的報い。

■全体の現代語訳(まとめ)

表面的に立派なことをしているように見えても、心が緩み、修行が不真面目であれば、その行ないは清らかとは言えない。そうした行為には真の価値がなく、望ましい結果(果報)も得られない――仏陀はこう教えている。


■解釈と現代的意義

この教えは「内実を伴わない形式主義」に対する警鐘です。外から見て立派に見える行動も、その動機や心がけが乱れていれば、本質的には“汚れている”とされるのです。現代社会では「パフォーマンス重視」や「上辺の信頼」が評価されやすいですが、この偈は「内なる誠実さ」の重要性を再確認させてくれます。


■ビジネスにおける解釈と適用

観点現代ビジネスでの適用例
パフォーマンス vs 本質表面的に善行(CSR・顧客対応)を演出しても、動機や体質が腐敗していれば評価は続かず、真の信頼は得られない。
品質管理と誠実さ作業手順を守っていても、心が緩んでいたり、細部をないがしろにしていれば、製品やサービスの本質は濁る。
リーダーの姿勢指導的立場にある者が、実は惰性で指示し、誠実に向き合っていなければ、チームの成長や成果は生まれにくい。
組織文化の評価美辞麗句を掲げる企業理念も、内実の行動や態度が伴っていなければ、社員も顧客も離れていく。

■心得まとめ

「誠実を欠いた善行に、果報は宿らず」

どれほど立派なことをしているように見えても、心に誠がなければ、その行ないは虚ろであり、報いも訪れない――仏陀の教えは、行動の“内面の質”を問うています。
現代社会やビジネスにおいても、本質に忠実な行動こそが、信頼と成果という“真の果報”をもたらす鍵なのです。

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