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才能はいつの時代にも存在する

— 探す目がなければ、逸材は埋もれたままになる

太宗は、右僕射の封徳彝に対して、国を治める根本は「人材を得ること」に尽きると語った。
人材を推挙するように命じたにもかかわらず、誰の名前も上がってこないことに不満を示し、「重責をともに担ってくれなければ、私は誰を頼ればいいのか」と強く問いかけた。

封徳彝は、奇才が見当たらないのだと弁明したが、太宗はそれを一蹴する。
「過去の聖王たちは、その時代に生きる人々の中から才能を見出したのであり、過去の賢者を呼び戻したわけではない。賢人がいないのではなく、見抜けず、逃していることこそが問題なのだ」と断言した。

逸材は、今この時代にも確かに存在する。ただし、それを見出し、抜擢する目を持たねばならない。君主だけでなく、側近たる者にもその覚悟が求められる。


ふりがな付き引用

「貞(じょう)観(がん)二年(にねん)、太宗(たいそう)、右僕射(うぼくや)封徳彝(ほうとくい)に謂(い)いて曰(いわ)く、
『致安(ちあん)の本(もと)、惟(ただ)人(ひと)を得(え)るに在(あ)り。比来(ひらい)、卿(けい)に命(めい)じて賢(けん)を挙(あ)げしむるも、未(いま)だ嘗(かつ)て推薦(すいせん)有(あ)らず。天下(てんか)の事(こと)重(おも)く、卿(けい)は宜(よろ)しく憂勞(ゆうろう)を分(わか)つべし。卿(けい)言(い)わずんば、将(はた)たして安(いず)くんぞ寄(よ)らん』。
對(こた)えて曰(いわ)く、『臣(しん)が愚(ぐ)、豈(あ)に敢(あ)えて尽(つ)くさざらんや。但(ただ)今(いま)未(いま)だ奇才(きさい)異能(いのう)有(あ)るを見(み)ず』。
太宗曰(たいそういわ)く、
『代(よ)に明王(めいおう)有(あ)りて人(ひと)を使(つか)うこと器(うつわ)の如(ごと)く、皆(みな)当時(とうじ)に士(し)を取(と)る。異代(いだい)に才(さい)を借(か)らず。豈(あ)に傅説(ふえつ)を夢(ゆめ)み、呂尚(りょしょう)に逢(あ)うを待(ま)ちて、然(しか)る後(のち)に政(まつりごと)を為(な)すべけんや。且(か)つ何(いず)れの代(よ)か賢(けん)無(な)からん。ただ患(うれ)うるらくは、隠(かく)れて知らざるのみ』」。
徳彝(とくい)、慙赧(ざんたん)して退(しりぞ)く。


注釈

  • 致安之本、惟在得人(ちあんのもと、ただひとをえるにあり):国家の安定を保つには、何より人材を得ることが根本だという意。
  • 右僕射(うぼくや):尚書省の次官で、高官中の高官。政務全般に関わる。
  • 夢傅・逢呂(むふ・ほうりょ):傅説は殷の賢臣、呂尚(太公望)は周の名軍師。伝説的な逸材にたとえて、彼らが現れるのをただ待っても無意味という教訓。
  • 慙赧(ざんたん):顔を赤らめて恥じ入るさま。
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