話がうまくなくても、人間として優れている人はいる
ある人物が、孔子の弟子・雍(冉仲弓)について「仁者(じんしゃ)にふさわしい人格だが、弁は立たない」と評価した。それに対し孔子は、「弁が立つかどうかにこだわる必要はない」と応じた。
むしろ、口がうますぎると、軽薄に見えたり、人を制する道具として使われたりして、かえって人に嫌われることもあるという。
孔子は、雍が本当に仁者かどうかは分からないとしつつも、「佞(べんざい)=口のうまさ」は必ずしも徳の証ではないと断言している。
この言葉は、表面的な印象や技術に惑わされず、「話し方」よりも「在り方」を大切にせよという、時代を超えた本質の教えである。
人に真の価値があるかどうかは、口のうまさで決まるものではない。
むしろ、誠実に生きる者は、飾り立てた言葉を必要としない。
原文
或曰、「雍也、仁而不佞。」
子曰、「焉用佞?禦人以口給、屢憎於人。不知其仁。焉用佞?」
書き下し文
或(ある)ひと曰(いわ)く、「雍(よう)や、仁(じん)にして佞(ねい)ならず。」
子(し)曰く、「焉(いず)くんぞ佞を用いん。人を禦(ふせ)ぐに口給(こうきゅう)を以(もっ)てすれば、屢(しばしば)人に憎(にく)まる。其の仁なるを知らず。焉んぞ佞を用いん。」
現代語訳(逐語・一文ずつ訳)
「或曰、雍也、仁而不佞」
→ ある人が言った。「雍は仁徳に富んでいるが、弁が立たないようだ」
「子曰、焉用佞?」
→ 孔子は言った。「そもそも、雄弁など何の役に立つのか?」
「禦人以口給、屢憎於人」
→ 「言葉巧みに人に対応すれば、しばしば人に嫌われるものだ」
「不知其仁」
→ 「そして、本当の仁徳を持つ人だと気づかれなくなる」
「焉用佞?」
→ 「それでもなお、雄弁を求める必要があるだろうか?」
用語解説
- 雍(よう):孔子の高弟・冉雍(ぜんよう/冉子とも)。温厚で誠実な人物として知られる。
- 仁(じん):孔子の思想で最も重要な徳の一つ。他者への思いやり、誠実さ、愛の精神。
- 佞(ねい):言葉巧み、口がうまいこと。時に「へつらい」「詐術的な弁舌」のニュアンスも含む。
- 焉(いず)くんぞ~んや:反語表現。「どうして~だろうか(いや、そんなことはない)」
- 禦(ふせ)ぐ:対応する、応対する。
- 口給(こうきゅう):口が達者なこと、弁舌に富むこと。
全体の現代語訳(まとめ)
ある人が「冉雍は仁徳があるが、あまり雄弁ではない」と言った。
それに対して孔子は、「そもそも、雄弁など必要なのか?言葉巧みに人に応じる者は、かえって人に嫌われやすく、本当の仁徳が見えなくなるものだ。そんな佞(口のうまさ)など、何の役に立つのか?」と述べた。
解釈と現代的意義
この章句は、孔子が「言葉の巧さ」よりも「内面の徳」を重視したことを明確に示すものです。
- 「仁」において最も大切なのは誠実さであり、虚飾的な雄弁ではない。
- 雄弁であることは時に「誤解を招き」「反感を買い」「本質を覆い隠す」。
- 本当に優れた人物は、寡黙であってもその“徳”がにじみ出る。
この姿勢は、「見せる技術」や「自己演出」が重視されがちな現代において、**“本質を見る目”と“真の信頼の築き方”**を再考させる示唆に満ちています。
ビジネスにおける解釈と適用
「話し上手=信頼される、ではない」
営業やプレゼンが得意な人物は一見重宝されるが、言葉だけで人を動かそうとする者は、信頼よりも警戒を招きやすい。逆に、誠実な実行力を持つ人は、言葉少なくとも信頼を勝ち得る。
→ 信頼とは“言葉の巧さ”ではなく、“行動の誠実さ”から生まれる。
「本質は“語る力”ではなく“支える力”」
冉雍のような人物は、組織において目立たないが、確実に支えるタイプ。
孔子は、そうした「縁の下の力持ち」タイプを高く評価した。
→ “声の大きい者”だけでなく、“黙して徳を積む者”を見逃すな。
ビジネス用の心得タイトル
「語るより誠、飾るより徳──“静かなる信頼”が人を動かす」
この章句は、「コミュニケーション能力」と「人間的信頼」のバランスを考える上で非常に現代的な教訓を含んでいます。
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