――影響されず、動じず、ただ自分であること
古の名僧はこう言った。
「竹の影が階(きざはし)にさっと映って風に揺れても、階に積もる塵(ちり)は動かない。
月の光が池の水を突き破るように映っても、水面には一筋の痕跡も残さない。」
また、ある儒者はこう語る。
「水がどれほど勢いよく流れていても、周囲の景色は常に静けさを保っている。
花がいくら落ちてきても、わたしの心はのどかさを失わない。」
このように、人は事に応じ、物と接するときも、常に静かな心を保つべきである。
周囲に影響されず、自分の心と体がどこまでも自由自在であるように――
それは、風にも揺れない“心の軸”をもつこと。
外の動きに引きずられず、静かにして動じない姿にこそ、本当の自由が宿る。
引用(ふりがな付き)
古徳(ことく)云(い)う、
「竹影(ちくえい)、階(きざはし)を掃(はら)うも塵(ちり)動(うご)かず。月輪(げつりん)、沼(ぬま)を穿(うが)つも水に痕(あと)無し」
吾儒(ごじゅ)云う、
「水流(すいりゅう)、急に任(まか)せて境(きょう)常(つね)に静かなり。花落(お)つること頻(しき)りなりと雖(いえど)も、意(こころ)自(おの)ずから閒(かん)なり」
人、常(つね)に此(こ)の意(い)を持(じ)して、以(もっ)て事(こと)に応(おう)じ物(もの)に接(せっ)すれば、身心(しんしん)何等(なんとう)の自在(じざい)ぞ。
注釈
- 竹影、塵動かず/月輪、痕無し:仏教的比喩。外的現象に影響を受けない「不動心」を象徴している。
- 吾儒(ごじゅ):著者自身も属する儒者。ここでは邵堯夫(邵雍)を指すとされる。
- 水流任急 境常静:状況が激しく流れていようとも、自分の心はその中で乱されないという態度。
- 花落頻り 意自閒:目の前で次々に変化が起きても、心は変わらず落ち着いている様子。
- 自在:思うまま、しなやかに自分らしく生きる姿。自由でありながら節度を保つ境地。
関連思想と補足
- 仏教でいう「不動心」や「無分別智」、道教でいう「無為自然」に通じる精神。
外界にとらわれず、内なる静けさを保つことの大切さを説いている。 - 禅語にも「風吹不動天辺月(風ふけども動ぜず天辺の月)」という句があるように、
“動かざるもの”の境地は、修養の到達点とされてきた。 - 現代で言えば、情報過多で絶えず揺さぶられる日常の中にあって、
一点の静けさを持つことの価値を示唆する内容ともいえる。
原文
古德云、竹影掃階塵不動、月輪穿沼水無痕。
吾儒云、水流任急境常靜、花落雖頻意自閒。
人常持此意、以應事接物、身心何等自在。
書き下し文
古徳(ことく)云(い)わく、「竹影(ちくえい)、階(きざはし)を掃(はら)うも塵(ちり)動かず。月輪(げつりん)、沼(ぬま)を穿(うが)つも水に痕(あと)無し」。
吾が儒(じゅ)云わく、「水流、急に任せて境(きょう)常に静かなり。花落つること頻(しき)りなりと雖(いえど)も、意(こころ)自(おの)ずから閒(しず)かなり」。
人、常に此の意を持して、以て事に応じ物に接すれば、身心何等(なんとう)の自在ぞ。
現代語訳(逐語/一文ずつ訳)
「古徳曰く、『竹の影が階段を掃っても、塵は動かない。月の光が池を突き抜けても、水に跡は残らない』」
→ 禅の古人が言った。「竹の影が階段を横切っても、塵は舞い上がらず、月が沼を照らしても、水には何も痕が残らない」と。
「儒者は言う、『水の流れが急であっても、心の境地は常に静かである。花が頻繁に落ちても、心はなお安らかである』」
→ 儒家の教えではこう言われる。「たとえ水が激しく流れていても、心が平静ならば景色は動じず、たとえ花が散っても、心が乱されることはない」と。
「人が常にこのような心を持って物事に対応すれば、どれほど身も心も自由でいられることか」
→ 人がこのような静かで揺るがぬ心境を保ち、日常の出来事や人間関係に対応すれば、身も心もどれほど自由になれることだろうか。
用語解説
- 古德(ことく):過去の賢者・聖人、特に禅宗の高僧などを指す。
- 竹影(ちくえい):竹の影。軽やかで透明感あるものの象徴。
- 月輪(げつりん):満月。ここでは月光の象徴。
- 穿(うが)つ:突き抜ける、通る。
- 吾儒(ごじゅ):儒家、儒学の立場に立つ者(特に宋学以降の理学者など)。
- 意自閒(こころおのずからしずかなり):心が騒がず、穏やかであること。
- 境(きょう):境地、状況、環境。
- 應事接物(じにおうじ、ぶつにせっす):物事に対処し、人に接すること。
全体の現代語訳(まとめ)
禅の高僧はこう語った──「竹の影が階段をかすめても、塵ひとつ舞い上がらず、月が池を照らしても、水面には何の痕跡も残らない」。
また、儒家はこう説いた──「水が激しく流れていても、心の境地が静かであれば、それは乱れない。花がいくら散ろうとも、心はなお穏やかに保たれている」。
このような静謐な心持ちをもって日々の物事に対処し、人と接することができれば、身も心もこれほどまでに自由でいられることだろう。
解釈と現代的意義
この章句は、「環境が動いても心を動かさない精神の在り方」を禅と儒の両面から示しています。
- 禅的静謐(しょうひつ):竹の影や月の光のように、「影響を与えずにそこに在る」という、無為自然の境地。
- 儒的平常心:変化する外部に影響されず、「意(こころ)自ずから閒(しずか)なり」と保ち続ける力。
この二つに共通するのは、**「反応しない心の自由」「物事に染まらない主体性」**です。
動じないからこそ、冷静に物事に対応でき、自由に生きられる──それが本質的な精神的成熟の姿といえます。
ビジネスにおける解釈と適用(個別解説付き)
1. 「感情に揺さぶられず、状況を“そのまま”見る力」
多忙・混乱・対人トラブルに巻き込まれる中で、竹の影のように軽く、月の光のように静かに場に居られれば、
冷静で本質的な判断ができるリーダーになれます。
2. 「変化に巻き込まれず、内側に軸を保つ」
水の流れや花の落下のように、外界は常に変化している。
そのなかでも「意自閒」でいられることが、メンタルの安定・セルフマネジメントの核心です。
3. 「相手を乱さず、場を整える“静かな存在感”」
竹影のように相手に波紋を起こさない人、月のように穏やかに場を照らす人──
そのような人物は、チームの安定と安心感の中核を担うことができます。
ビジネス用の心得タイトル
「静かに照らし、響かせず在る──心を動かさぬ者こそ、自在である」
この章句は、**「外に翻弄されず、内に静けさを湛える」**という東洋思想の理想像を、詩的な表現で見事に伝えています。
それは「逃げる無関心」ではなく、「すべてを受け入れた上で、乱れない在り方」なのです。
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