感化されやすい心では、真の知も徳も身につかない
かつて儒者であった陳相は、許行の学説に心酔し、孟子にこう語った:
「あなたの国の君主は、たしかに賢い方です。
しかし本当の道――神農氏の教え――は、まだ知られていないようです。
真の賢者とは、民と共に耕し、朝夕の食事も自分で作りながら政治を行う者です」
陳相はさらにこう批判した:
「いま、この国には倉や宝庫に穀物や金銀が満ちています。
それは、民を苦しめて税を取り、自らのぜいたくの糧にしているだけではありませんか?
これでは賢者とは言えません」
彼は、為政者が労働によって民と共に生きるべきだという理想を語ったが、それは許行の思想の受け売りであり、かつて学んだ儒家の教えとは真逆のものだった。
孟子の批判は、次章以降に続くが、ここでは次のことが問われている。
本章の主題
学びにおける一貫性と主体性の欠如、そして実用を無視した理想主義への懐疑である。
孟子が言わんとしたのは、こうである:
- 他人の思想に容易に影響されて、過去の学びを全否定してしまうような態度では、本当の学問とは言えない
- 政治とは、単なる道徳の実演ではなく、民を養い、国を治める実際の能力と制度のバランスの上に成り立つ
つまり、「民と一緒に鍬を持てばそれで賢者か?」という問いが、これから孟子によって返されるのである。
引用(ふりがな付き)
賢者(けんじゃ)は民(たみ)と並(なら)び耕(たがや)して食(しょく)し、饔飧(ようそん)して治(おさ)む。
今(いま)や には倉廩府庫(そうりんふこ)有(あ)り。則(すなわ)ち是(こ)れ民(たみ)を厲(くる)しめて以(もっ)て自(みずか)ら養(やしな)うなり。悪(いず)くんぞ賢(けん)なるを得(え)ん。
簡単な注釈
- 神農氏:伝説上の農業の始祖。労働の尊さを説く農家思想の象徴的存在。
- 饔飧(ようそん):朝と晩の食事。自炊を意味し、生活の自立と清貧を象徴。
- 倉廩府庫(そうりんふこ):国の穀物倉や財政庫。国が富を蓄える場所。
- 厲ましめて:民を苦しめて。税を重く課し、富を蓄えることで民を圧迫するとの批判的表現。
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この章は、孟子が「学問の深さと一貫性」を尊重する立場から、許行に感化された陳相の態度に警鐘を鳴らす場面です。信念をもって何かを学び、判断し、実践するためには、自分自身の思索と立場が不可欠であるという孟子の教えが、ここに潜んでいます。
1. 原文
陳相見孟子,道許行之言,曰:
「君則誠賢君也,雖然未聞道也。賢者與民竝耕而食,饔飧而治。
今也,倉廩府庫,則是厲民而以自養也,惡得賢。」
2. 書き下し文
陳相(ちんしょう)、孟子に見(まみ)え、許行の言を道(い)いて、曰(いわ)く:
「君は則ち誠に賢君なり。然(しか)りと雖(いえど)も、未(いま)だ道(みち)を聞かざるなり。
賢者は民と並(なら)び耕して食(くら)い、饔飧(ようそん)して治(おさ)む。
今や、倉廩(そうりん)・府庫(ふこ)あり。則ち是(これ)、民を厲(やぶ)らしめて以(もっ)て自ら養うなり。
悪(いづく)んぞ賢なるを得ん。」
3. 現代語訳(逐語/一文ずつ訳)
- 「陳相見孟子,道許行之言」
→ 陳相は孟子に会い、許行の主張を伝えた。 - 「君則誠賢君也,雖然未聞道也」
→ 「君(=あなた)はたしかに賢い君主だ。しかし、まだ“道”を本当に理解しているとは言えない。」 - 「賢者與民竝耕而食,饔飧而治」
→ 「真の賢者は、民と共に耕作して食べ、料理も自らしながら政治を行うべきだ。」 - 「今也,倉廩府庫,則是厲民而以自養也」
→ 「だが今、あなたは倉庫や財庫を持っている。つまり、民を苦しめて自分の食い扶持にしているのだ。」 - 「惡得賢」
→ 「そんなことで、どうして賢いなどと言えるのか?」
4. 用語解説
- 陳相:許行に影響され、孟子とも議論した思想家。
- 許行:神農の教えを奉じ、自給自足・労働による統治を説いた人物。
- 道(みち):ここでは“理想の政治的理念”を指す。
- 饔飧(ようそん):饔=朝食、飧=夕食。自分で料理して生活を営むこと。
- 倉廩(そうりん)・府庫(ふこ):政府や国家が管理する食糧庫や財政庫。
- 厲民(れいみん):民を圧迫する、搾取すること。
5. 全体の現代語訳(まとめ)
陳相は孟子に会い、許行の教えを紹介してこう言った:
「あなたはたしかに立派な君主ではある。けれど、まだ“真の道”を理解しているとは思えません。
真の賢者は、民と共に畑を耕し、食事を自分で作りながら政治を行うべきです。
けれど今のあなたは、倉や財庫を設けて、自分の食い扶持を民の苦労から得ています。
そんなことで、どうして“賢者”と呼べるでしょうか?」
6. 解釈と現代的意義
この章句は、政治のあるべき姿を「民との一体化」に求める思想と、孟子の儒家的階層秩序思想の対立の導入部に当たります。
- 許行の思想=“労働と平等こそ徳”という神農的共生モデル
政治を担う者は民と同じ生活をすべき。これは非常にラディカルな平等主義です。 - 陳相の指摘=“倉庫や制度に依る支配は搾取に過ぎない”という警告
自ら耕さず、食糧を蓄えて民から取っているならば、それは“徳による治世”ではなく“強者の搾取”に過ぎないとする主張。 - 孟子への挑戦的問題提起
孟子が説く仁政・礼・階層秩序は、果たして本当に“民のため”か?という根源的問いがここにある。
7. ビジネスにおける解釈と適用
「“生活者目線”のないリーダーは信頼されない」
- 現場の苦労や生活実感を知らずに政策や制度を決めるリーダーは、知らず知らずのうちに“厲民”となっているかもしれない。
- 自ら手を動かす体験やフィールドワークによって、リーダーは信頼を得る。
「報酬や権力は“民を潤す手段”でなければならない」
- 社長室・経費・インセンティブ──それが“民の苦労を財源とする”構図になっていないかを絶えず点検すべき。
「理念と実践が一致しなければ、“道を得ていない”」
- 理想的な経営理念を語るだけではなく、それが具体的な待遇・時間配分・支出構造に反映されていなければ、道を聞いていないのと同じ。
- 働き方改革・現場主義・ワークライフバランスは、単なる方針ではなく“暮らしとの連動”でこそ評価される。
8. ビジネス用心得タイトル
「語る理想より、共に耕す現実──生活に根ざした統治が信を得る」
この章句をきっかけに、孟子と陳相(および許行)の思想対決が展開していきます。
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