― 勝敗ではなく、道理によって立つ ―
孟子は前項に続き、二人の勇士――孟施舎と北宮黝――の“勇の質”を再び論じる。
孟施舎の勇は孔門の曾子(そうし)に、北宮黝の勇は子夏(しか)に似ているという。
この二人のどちらの勇が優れているかは断じ難いが、「自らを守る」という点では、孟施舎の方が実用的で要を得ていると孟子は述べる。
なぜなら、孟施舎の勇は「恐れないこと」を核心としながらも、現実的な自己の維持を重視しているからだ。
だが、孟子はさらにもう一段深い勇――曾子の言葉にこそ、真の「大勇」があると語る。
曾子は弟子の子襄にこう語った:
「お前は勇を好むか。私はかつて孔子から“真の大勇”とは何かを聞いたことがある。
自らの心に問い、それが正しくなければ、たとえ相手がどんなに取るに足らぬ者であっても、私は恐れてしまう。
しかし、自らの心に問い、それが正しいとわかったならば、たとえ相手が千万人であっても、私は行くのだ」。
孟子は、孟施舎の「恐れない勇」が立派であるとしながらも、それはあくまで“気を守る”にとどまるものだと見ている。
それに対し曾子の「道を守る勇」は、心の正しさをよりどころにして、いかなる状況にも揺るがず進む勇気であり、
恐れないことではなく、「正義に従って動くこと」そのものが、より高次の勇であると評価している。
原文(ふりがな付き引用)
「孟施舎(もうししゃ)は曾子(そうし)に似(に)たり。
北宮黝(ほくきゅうゆう)は子夏(しか)に似たり。
夫(か)の二子(にし)の勇(ゆう)は、未(いま)だ其(そ)の孰(いず)れか賢(まさ)れるを知らず。
然(しか)り而(し)して孟施舎(もうししゃ)は守(まも)り約(やく)なり。
昔者(むかし)、曾子(そうし)、子襄(しじょう)に謂(い)いて曰(い)わく、
子(し)、勇(ゆう)を好(この)むか。吾(われ)嘗(かつ)て大勇(たいゆう)を夫子(ふうし)に聞(き)けり。
自(みずか)ら反(かえ)して縮(なお)からずんば、褐實博(かつじつはく)と雖(いえど)も、吾(われ)惴(おそ)れざらんや。
自ら反(かえ)して縮(なお)ければ、千万人(せんまんにん)と雖も吾(われ)往(ゆ)かん、と。孟施舎(もうししゃ)の気(き)を守(まも)るは、又(また)曾子(そうし)の守(まも)りの約(やく)なるに如(し)かざるなり。」
注釈(簡潔版)
- 曾子(そうし):孔子の高弟であり、孟子の師系に連なる思想的祖。内省と道徳的実践に重きを置いた人物。
- 子夏(しか):孔子の弟子の一人。北宮黝のような外的行動に重きを置く勇に通じるとされる。
- 自反して縮からずんば:自分の行いを内省して正しければ、どんな相手でも恐れない。
- 縮ければ:「正しければ」とも解釈されるが、原義は「まっすぐ」「筋が通っている」という意味。
- 褐實博(かつじつはく):粗末な服を着た身分の低い者のたとえ。
- 往かん:進む、行動する意志の表明。
パーマリンク(英語スラッグ案)
stand-alone-against-ten-million
(千万人といえども我ゆかん)courage-through-conscience
(良心による勇気)true-bravery-is-inner
(真の勇気は内に宿る)
この章は、孟子が定義する「真の勇気とは何か」を、感情・反応・力の大きさではなく、自己内省と義の確信に基づいた行動として明確に示す核心部です。
単なる大胆さではなく、正しさに根ざした行動――それが孟子における“大勇”です。
コメント