—誤った権威を支える者は、暴君と同罪である
魏徴は、隋の煬帝のもとで起きた大量の冤罪事件を語った。
盗賊発生の報を受けた煬帝は、於士澄に命じて容疑者を無差別に拷問させ、わずかの疑いで二千人以上を斬首。
その中の多くは、冤罪であることが後に判明したにもかかわらず、誰も諫言せず、命令に従って処刑された。
太宗はこの話に憤りを覚え、「誤りを正せぬ臣は、暴君と同じほど罪深い」と言い、
「私はそなたたちの助けで、牢獄が空になる国を作れた。だからこそ、最後まで誠実な政を保ってほしい」と誓った。
原文(ふりがな付き引用)
「但(た)だ疑似(ぎじ)あらば、苦(くる)しみを加(くわ)えて拷掠(ごうりゃく)し、
枉(ま)げて賊(ぞく)を承(う)くる者(もの)二千余人(にせんよにん)、並(なら)びに同日(どうじつ)に斬決(ざんけつ)す。
…
有司(ゆうし)、煬帝(ようだい)すでに斬決(ざんけつ)を令(れい)したるを以(もっ)て、執奏(しっそう)せず、並(なら)びにこれを殺(ころ)す」
注釈
- 疑似(ぎじ):明確な証拠はないが、疑われる様子。
- 拷掠(ごうりゃく):拷問して自白を引き出す行為。
- 枉承(おうしょう):事実でない罪を無理やり認めさせること。
- 執奏(しっそう):上奏して君主に報告すること。
- 囹圄(れいご):牢獄。太宗が「牢獄が空になった」と述べた象徴的表現。
教訓の核心
- 権力における最大の暴力は、誤った命令が正されないことである。
- 沈黙と服従がもたらす犠牲は、時に戦よりも多くの命を奪う。
- 法を曲げる命令に対してこそ、諫言の真価が問われる。
- 正義は、声を上げる者によって守られる。
対象章句(貞観四年)
貞觀四年、太宗論隋日。魏徵對曰:「臣往在隋、曾聞有盜發。煬帝令於士澄捕之。但有疑似、苦加拷掠、枉承賊者二千餘人、並令同日斬決。大理丞張元濟怪之、試驗其狀、乃有六七人、盜發之日、先禁他獄、被放纔出、亦被推勘、不勝苦痛、自誣行盜。元濟因此更事究治、二千人中惟九人逗留不明。官人有諳識者、就九人中四人非賊。有司以煬帝已令斬決、不敢執奏、並殺之。」
太宗曰:「非是煬帝無道、臣下亦不盡心、須相匡諫、不當誅戮。豈得惟行諂佞、苟求容譽。君臣如此、何得不敗。所賴公等共相輔佐、務令囹圄空虛。願公等善始克終、恆如今日。」
1. 書き下し文
貞観四年、太宗、隋の時代を論じた。
魏徵が対して言った。
「臣、かつて隋に在りしとき、盗賊の発生を聞きました。
煬帝は士澄に命じてこれを捕えさせましたが、ただ疑わしいというだけで、ひどく拷問し、無実の者に盗賊の罪を認めさせ、二千余人が同日に斬首されました。
大理丞の張元濟がこれを怪しみ、試みに調べたところ、その中の六、七人は盗難事件の当日、別の監獄に拘留されており、釈放されたばかりの者でした。
その者たちは拷問に耐えきれず、自ら盗みを働いたと虚偽の自白をしたのです。
元濟はこれをきっかけに、事件を再調査したところ、二千人中、冤罪である可能性がある者は九人に絞られました。
そのうち、さらに四人が明らかに無実であることが分かりましたが、煬帝が既に死刑を命じていたため、役人たちは奏上を恐れてできず、そのまま全員が処刑されました。」
太宗は言った。
「これは煬帝一人が非道だったのではなく、臣下もまた尽力しなかったことが原因である。
本来なら互いに正し合い、誤った処罰を避けるべきであるのに、どうして諂(へつら)い、表面の名誉だけを求めて済ませるのか。
君臣がこのようでは、国が滅びるのも当然である。
いま私が頼りにしているのは、諸君の補佐があってこそであり、獄舎を空虚に保つことに務めてくれている。
どうか、善く始めて終わりを全うし、常に今日のようであってほしい。」
2. 現代語訳(逐語・一文ずつ)
- 「臣、かつて隋にいたころ、盗難事件が発生したことを聞きました」
→ 隋に仕えていたとき、大規模な盗難事件が起きた。 - 「煬帝は士澄に捜査を命じましたが、容疑があるだけで拷問を行い、多くの冤罪者が出た」
→ 証拠もないのに、拷問によって罪を認めさせ、2000人以上が同日に処刑された。 - 「張元濟という判官が不審に思い、検証したところ、少なくとも九人が冤罪の可能性があり、さらに四人は明らかに無実だった」
→ 再調査の結果、無実の者が混じっていると判明した。 - 「しかし、煬帝の命令が出た後であったため、誰も止められず、そのまま全員が殺された」
→ 命令を恐れて、誰も異を唱えられなかった。 - 「太宗はこれを聞き、『煬帝一人が悪かったのではなく、家臣も諫めず協力もしなかったことが問題だ』と述べた」
→ 支えるべき家臣の沈黙も、悲劇の一因とする。 - 「そして、『お前たちは今、互いに補佐し合い、冤罪を防ぐ努力をしていることを嬉しく思う。ぜひ初心を忘れず続けてほしい』と述べた」
→ 現在の状態を称賛し、その維持を願った。
3. 用語解説
- 煬帝(ようだい):隋の暴君として知られる第2代皇帝・楊広。
- 士澄:当時の捜査官的な役職に就いていた官人。
- 大理丞(だいりじょう):司法官、裁判制度の管理者。
- 張元濟:隋末の司法官。再審を試みたが処刑を止められなかった。
- 枉承賊(おうしょうぞく):冤罪によって盗賊の罪をかぶせられた者。
- 匡諫(きょうかん):君主の誤りを正し、諫めること。
- 囹圄(れいご):牢獄・刑務所のこと。
4. 全体の現代語訳(まとめ)
太宗は隋の政治を振り返り、魏徵はかつての恐るべき冤罪事件を語った。
煬帝は、盗賊を捕まえるために無差別な拷問を命じ、多くの無実の人々が罪を自白させられ、命を落とした。
張元濟が再調査を行ったが、煬帝の命令に逆らえず、冤罪の可能性がある者も含めて皆が処刑された。
太宗はこの話を聞き、「これは暴君の責任だけでなく、諫言しない家臣にも非がある」とし、今の善政を保つよう願った。
5. 解釈と現代的意義
この話は、制度の暴走と組織の沈黙がいかに人命を奪うかを示す強烈な教訓です。
形式的に「命令に従った」ことであっても、正義に反することを見過ごすことは、組織全体の腐敗を招きます。
また、「トップの意志に異を唱えられない組織」がいかに危険かを如実に語っています。
6. ビジネスにおける解釈と適用
- 組織のトップだけでなく、チェック機能を持つ者の責任も重い
トップの判断が誤っていたとしても、それを正す補佐役の責任が問われる。 - 「おかしい」と思ったら、黙認ではなく声を上げる勇気が必要
サイレントマジョリティの沈黙は、重大な失敗を後押しする。 - 事実確認を怠らず、権限に屈しない姿勢が必要
命令に従うだけでなく、状況を自分で見極める冷静な判断力が求められる。 - 誤った命令を実行すれば、それは命令者だけでなく実行者も責任を問われる
「命令だから」という言い訳は、もはや通用しない時代である。
7. ビジネス用の心得タイトル
「命令に沈黙せず、正義に従う」
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