――だからこそ、日常に根ざした“静かな幸福”を大切に
人生には、一つの喜びがあれば、すぐにそれとつり合うような悲しみが現れる。
うまくいったと思った光景にも、すぐさまそれを打ち消すような出来事が続く。
喜びは決して純粋に“単体”では訪れず、必ず対になる感情が背後にある。
こうした“相対するものの働き”が世の常である以上――
もっとも安心で幸せな生き方は、ありふれた食事、平凡な地位、素朴な風景を喜ぶことにある。
何の地位も、何の飾りもない静かな暮らしこそが、
人にとってほんとうの「安楽の窩巣(かそう)」となる。
引用(ふりがな付き)
一(ひと)つの楽(たの)しき境界(きょうがい)有(あ)れば、就(すなわ)ち一(ひと)つの不楽(ふらく)の相対待(あいたいたい)する有(あ)り。
一つの好光景(こうこうけい)有れば、就ち一つの不好(ふこう)の相乗除(あいじょうじょ)する有り。
只(ただ)だ是(こ)れ尋常(じんじょう)の家飯(いえめし)、素位(そい)の風光(ふうこう)のみ、纔(わず)かに是れ個(こ)の安楽(あんらく)の窩巣(かそう)なり。
注釈
- 相対待(あいたいたい):対を成してつり合い、互いに依存しながら変化する関係。陰と陽、喜と悲など。
- 相乗除(あいじょうじょ):加わったり差し引かれたりする関係。吉凶の交錯。
- 尋常の家飯(いえめし):特別なごちそうではない、日々の食事。平凡な家庭の味。
- 素位(そい)の風光:地位も名誉も飾りもない、ありのままの風景。
- 安楽の窩巣(あんらくのかそう):本当に安らげる人生の拠り所。飾らない「居場所」。
関連思想と補足
- 『菜根譚』の中でも、本項はとくに**『老子』的な価値観**が強く現れた一節です。
「足るを知る」「無為自然」「争わないこと」――こうした思想が土台にあります。 - 対照的に、『論語』では社会の中で仁義をもって生きる理想が語られますが、
『菜根譚』は社会的成功より、日々の穏やかさにこそ幸福があると説きます。 - また、19世紀のフランスの美食家ブリア=サヴァランの名言
> 「どんなものを食べているか言ってごらん。君の人格を言い当ててみせよう」
とも響き合います。日常の食事のあり方に、その人の人生観が映るという洞察です。
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