過ちの責任は弟子だけでなく、師にもある――学びにおける相互責任の倫理
古代中国の故事において、逢蒙(ほうもう)という弓の達人が、弓術の名手・羿(げい)に師事し、
その技を極めた。
やがて逢蒙は、「自分より優れた弓の使い手は師の羿だけだ」と考え、
ついにその唯一の超えるべき相手=師を殺してしまった。
この衝撃的な事件について、孟子は次のように言った:
「この件において、羿にもまた罪がある」。
それに対して、魯の賢人・公明儀(こうめいぎ)は異論を唱える:
「羿には、罪などほとんどあるまい」。
これに対して孟子は明快に答える:
「それは**“罪が薄い”と言えるにすぎない**。どうして“罪がない”などと言えようか」。
このやり取りからは、教える側(師)にも、その結果に対して責任があるという孟子の教育観が読み取れます。
技術だけを授けて人間の徳や心を育てることを怠れば、結果として大きな害を及ぼすことがある――
これが孟子の考える師の「薄いが無視できない罪」です。
原文(ふりがな付き)
逢蒙(ほうもう)、射(しゃ)を羿(げい)に学(まな)ぶ。
羿の道(みち)を尽(つ)くして、思(おも)えらく、天下(てんか)に惟(た)だ羿(げい)のみ己(おのれ)に愈(まさ)れりと為(な)す。
是(こ)れに於(お)いて羿を殺(ころ)せり。孟子(もうし)曰(いわ)く、是(こ)れ亦(また)羿も罪(つみ)有(あ)り。
公明儀(こうめいぎ)曰く、宜(よろしく)は罪無(な)きが若(ごと)し。
曰く、薄(うす)しと云(い)うのみ。悪(いずく)んぞ罪無きを得(う)べけんや。
注釈
- 逢蒙(ほうもう):羿に弓術を学んだ弟子。後に師を殺す。
- 羿(げい):古代中国の弓の名手。有窮国の王ともされる。
- 罪が薄い:完全に無実ではない。責任の一端を負うという意味。
- 公明儀(こうめいぎ):孟子の尊敬した魯の賢者。この章では孟子との対話者として登場。
心得の要点
- 教える者は、技術とともに徳を育てる責任がある。
- たとえ直接の加害者でなくとも、結果を生む一因があれば「薄い罪」を免れない。
- 弟子が過ちを犯したとき、師は「無関係」ではいられない。
- 過去の出来事をもとに、理と義を探る対話こそが教育であり、思索の楽しみである。
パーマリンク案(スラッグ)
- shared-responsibility-in-teaching(教えにおける相互責任)
- thin-blame-is-still-blame(罪が薄くても、罪は罪)
- discussing-history-to-learn-virtue(歴史から徳を学ぶ対話)
この章は、指導者・教育者・上司といった「教える立場」にある人にとって、極めて示唆に富む内容です。
どれほど教えが正しくとも、結果として弟子が非道を為すならば、自らの教育にも目を向ける必要がある――孟子のこの姿勢は、現代の教育倫理にも深く通じます。
原文:
逢蒙學射於羿,盡羿之道,思天下惟羿爲愈己,於是殺羿。
孟子曰:是亦羿有罪焉。
公明儀曰:宜若無罪焉。
曰:薄乎云爾,惡得無罪。
書き下し文:
逢蒙(ほうもう)、羿(げい)に射(しゃ)を学び、
羿の道を尽くし、思えらく「天下において己に勝(まさ)るは惟(ただ)羿のみ」と。
是(ここ)に於いて羿を殺せり。
孟子曰く:是れ亦(また)羿に罪有り。
公明儀(こうめいぎ)曰く:宜(むべ)なるかな罪無きが若し。
曰く:薄(うす)しと云うのみ。悪(いづく)んぞ罪無きを得んや。
現代語訳(逐語/一文ずつ訳):
- 「逢蒙は羿に射を学び、羿の技術を極めた」
→ 弟子の逢蒙は、名手・羿に弓術を学び、彼の技術を完全に身につけた。 - 「そして、自分より優れた者は羿しかいないと考え、羿を殺した」
→ 「天下に自分より優れた者は師である羿だけだ」と考え、その羿を殺してしまった。 - 「孟子は言った:これは羿にも罪がある」
→ この弟子の裏切りと師殺しの事件には、師である羿にも一因があると孟子は言う。 - 「公明儀が言った:それでは罪はないように見える」
→ 公明儀は「師が殺されたのに、どこに罪があるのか?」と疑問を投げかける。 - 「孟子は言った:『薄(うす)し』という程度のことだが、それでも罪がないとは言えない」
→ 確かに大きな落ち度ではないが、教育者としての影響の結果である以上、完全に無罪とは言えないというのが孟子の見解。
用語解説:
- 逢蒙(ほうもう):古代中国の人物。羿の弟子で弓術の達人。最終的に師である羿を殺した。
- 羿(げい):伝説的な弓の名手。「后羿(こうげい)」とも称され、神話では天の十太陽を射落とした人物。
- 尽羿之道:羿の教えを完全に身につけたという意。
- 公明儀(こうめいぎ):孟子の議論相手の一人。理屈で反論を試みることが多い。
- 薄し(うすし):罪が軽微である、責任の程度が少ない。
- 悪得(いずくんぞ~をう):どうして~を得ようか、の反語。=「~できるはずがない」
全体の現代語訳(まとめ):
逢蒙は、弓の名人である羿から技術を学び、そのすべてを習得した。
そして、自分より優れた者はこの世に羿ただ一人だと思い込み、
その羿を殺してしまった。
これに対して孟子は「これは羿にも責任がある」と述べた。
すると公明儀が、「それでは羿に罪はないのでは?」と反論した。
孟子は、「罪は軽いが、それでも無罪とは言えない」と答えた。
解釈と現代的意義:
この章句は、「教育の責任とその限界」について語っています。
孟子は、弟子の裏切りという明確な非道に対し、
「師(教育者)にも責任がある」とあえて述べています。
つまり、教育の影響は計り知れず、
教えた者の人格形成や倫理感にも関与するべきであり、ただ技術を伝えただけでは教育の責任は果たせないという厳しい立場です。
また、弟子の能力だけを伸ばし、徳を育てなければ、
その能力はやがて害をもたらす武器となることも示唆しています。
ビジネスにおける解釈と適用:
- 「技術を教えるだけでは教育とは言えない」
育成において、スキルだけでなく倫理観・判断力を教えることが不可欠。 - 「人材育成の失敗も、管理者・上司の責任の一部である」
部下や後輩が不祥事を起こした場合、「指導の不足」や「理念教育の欠如」が問われる。 - 「力を持つ者は、徳を持たねば危うい」
能力を伸ばすことに成功しても、人間性やモラルが伴っていなければ、逆に組織を危機に陥れる。
ビジネス用心得タイトル:
「“育てた責任”から逃れるな──教育の力は善にも悪にもなる」
この章句は、人材育成、教育指針、倫理マネジメントに深い示唆をもたらします。
コメント