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民と喜びも悲しみも共にする王こそ、王道を歩む者である

斉の宣王が離宮・雪宮で孟子と面会したとき、王は楽しげに尋ねた。
「先生のような賢者も、このような場所で楽しむことはあるのだろうか」

孟子は答えた。「あります」

しかし、続けて重要なことを語った。
「人というものは、自分がその楽しみにあずかれなければ、つい為政者を非難してしまいます。
とはいえ、それは正しい態度ではありません。
けれども、民の上に立つ者が、自分だけ楽しみ、民と楽しみを共にしないのも、また正しくありません

真の統治者とは——

  • 民の楽しみを、自分の楽しみとして感じられる者であり、
  • 民の憂いを、自分の憂いとして共に悩める者である

こうした心を持った為政者に対して、民もまた自然とこう応える:

  • 「王の楽しみを、自分たちの楽しみとして嬉しく思い」
  • 「王の憂いを、自分たちの憂いとしてともに心配する」

そして孟子は結論づける。
「天下の楽しみを自らの楽しみとし、天下の憂いを自らの憂いとする者――そのような人物が王者とならなかった例は、これまでに一度たりともない」


ふりがな付き原文と現代語訳

「斉(せい)の宣王(せんのう)、孟子(もうし)を雪宮(せつきゅう)に見る。

王(おう)曰(い)わく、賢者(けんじゃ)も亦(また)此(こ)の楽しみ有(あ)るか。

孟子(もうし)対(こた)えて曰(い)わく、有(あ)り。

人(ひと)得(え)ざれば、則(すなわ)ち其(そ)の上(かみ)を非(ひ)る。得(え)ずして其(そ)の上(かみ)を非(ひ)る者(もの)は、非(ひ)なり。

民(たみ)の上(うえ)と為(な)りて、民(たみ)と楽しみを同(おな)じうせざる者(もの)も、亦(また)非(ひ)なり。

民(たみ)の楽しみを楽しむ者(もの)は、民(たみ)も亦(また)其(そ)の楽しみを楽しむ。

民(たみ)の憂(うれ)いを憂(うれ)うる者(もの)は、民(たみ)も亦(また)其(そ)の憂(うれ)いを憂(うれ)う。

楽しむに天下(てんか)を以(も)てし、憂(うれ)うるに天下(てんか)を以(も)てす。然(しか)り而(し)して王(おう)たらざる者(もの)は、未(いま)だ之(これ)有(あ)らざるなり」

現代語訳:
斉の宣王が孟子を雪宮に招いた。王は楽しげに尋ねた。
「先生のような賢者も、こういった場所を楽しむことはあるのですか」

孟子は答えた。「あります」

そして続けた。
「人は、自分がその楽しみを得られなければ、上に立つ者を非難したくなるものです。
それは褒められることではありませんが、しかしまた、民の上に立つ者が、自分だけが楽しみ、民と楽しみを共にしないことも、やはり非難されるべきことです

「民の楽しみを心から共に喜ぶ王に、民もまた王の楽しみを喜び、
民の苦しみを共に悩む王に、民もまた王の苦しみに寄り添うのです」

天下の喜びを自らの喜びとし、天下の憂いを自らの憂いとする者――
そうした者が、王者になれなかったことは、歴史上ただの一度もありません


注釈

  • 雪宮(せつきゅう)…斉の宣王が造営した離宮。豪奢な遊興の場でもあった。
  • 賢者(けんじゃ)…徳と知を兼ね備えた人物。ここでは暗に孟子自身を指す。
  • 得ざれば其の上を非る…自分がその楽しみを得られなければ、為政者を批判すること。
     孟子はこれを「善いとは言えないが、人情として自然なもの」として受け止める。
  • 楽しむに天下を以てす/憂うるに天下を以てす…天下の人々と喜び、天下の人々と憂うという姿勢。
     後の范仲淹の「先憂後楽(先に天下を憂い、後に天下を楽しむ)」の思想に通じる。

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この節は、孟子の「仁政」思想の核心の一つであり、為政者の「共感」「共有」「共苦共楽」の重要性を説いたものです。
民とともに感じ、民とともに歩む者こそが、真の王者である――その信念が響く章です。

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