MENU

七光りだけでは

T工業の社長から、息子である専務を教育してほしいとの依頼を受けた。年齢を重ねる中で疲れを感じ、会社を息子に譲りたいという意向だ。しかし、現状では経営を任せるには不安があるため、経営者としての道を指導してほしいとのことらしい。自分にその役割が果たせるかどうかは正直分からないが、せっかくの依頼なので、できる限りのことをやってみることにした。

ちょうど社長は、会社の将来を見据えたときに、現在の事業だけでは「一本足のかかし」状態だと感じており、新たな事業を立ち上げる構想を練っている最中だった。そこで、専務にその新事業を任せ、社長と自分がバックアップするという方針で話がまとまった。

それは、自分で事業を立ち上げる苦労を経験することで、経営者としての自覚とスキルを養えるだろうという狙いだった。しかし、この目論見は見事に外れた。大学を卒業し、すでに数年間、社長のもとで実務を経験しているにもかかわらず、計画を立てる力がまるで備わっていない。事業を進めるうえで何が必要で、どのように進めるべきかを、こちらが質問やヒントを与えながら導き出そうと試みても、反応がさっぱりだ。やむを得ず宿題を出すが、それすら一度も満足にできた試しがない。

それでも、時折、ようやくヨチヨチと歩き出すことがある。これでやっと動き出すかと期待しても、数歩進んだところで座り込んでしまい、それ以上は動こうとしない。この様子を見ていると、社長が亡くなったらこの会社はどうなるのだろうかと不安になる。一方で、父親が健在だから甘えが抜けないだけで、頼る存在がいなくなったときには、嫌でも真剣に向き合うようになるのだろうかとも思えてくる。

Z社の専務は、最高学府を卒業した秀才であり、現代的で好感の持てる青年だ。学校を卒業すると同時に、父親が社長を務める会社に専務として入社した。社長は「すべてを専務に任せるから、思うようにやればいい」と言い、そのうえで私に顧問を引き受けてほしいと依頼してきた。

専務と会社の事業について、さまざまな検討を進めていく中で、彼の理解力の高さと優れた判断力には感心させられる。ただ、残念なことに、行動力が決定的に不足している。この点がなければ申し分ないのだが。

専務と会社の事業について、さまざまな検討を進めていく中で、彼の理解力の素晴らしさや判断力の高さは目を見張るものがある。ただし、惜しむべきはその行動力の乏しさだ。決めたことをまったくやらないわけではないが、行動の範囲が限られている。計画を立てても、簡単な部分だけは実行するが、困難な部分には手を付けないことが常だ。「インテリは頭が良いが行動力に欠ける。頭の良さを活かすのは行動だ。もっと動け!」と何度も叱咤しているが、一向に変わらない。

何度も顔を合わせ、互いに気心が知れてきたころ、専務はようやく本音を打ち明けてきた。「今の事業は、どうしても自分の性格に合わないんです。僕が本当にやりたいのは、これこれの事業なんです」と。実は、私もその違和感を感じていたので、彼の言葉に特に驚きはなかった。むしろ、ようやく自分の本音を話してくれたことに少し安堵した。

たとえ父親が始めた会社であっても、性格に合わない仕事では続けていくのは難しい。これまで何年も努力してきたにもかかわらず、どうしても本気でやる気が湧かないのであれば、無理をしても成果にはつながらないだろう。特に、価格競争が激しく、熾烈な過当競争が繰り広げられる今の業界では、専務の性格では太刀打ちできないと私の目にも映る。父親とこの問題について話し合ったことがあるのか尋ねてみると、特に深く話したことはないが、父親も薄々気づいているようだ、という答えが返ってきた。

このような状態が続く限り、専務自身も救われないし、何より会社が救われないだろう。父親は、自分の子供の性格を幼い頃から見続けてきたはずだ。その中で、「この子はこんな性格だから、こういう職業が合っているのではないか」と考え、それに沿った道を示してやることが、子供にとって最も幸せな選択なのではないだろうか。親として、その責任と役割を果たすことが、結果的に子供の将来と会社の未来を守ることにつながるはずだ。

子供の性格が経営者として適しているかどうかは、長年その成長を見守ってきた父親なら分かっているはずだ。それにもかかわらず、不適だと知りつつ、自分の会社を継がせようとするのは、父親のエゴだと言われても仕方がないだろう。子供の将来よりも、自分が築いたものを引き継いでほしいという思いを優先することが、最終的には子供にも会社にも不幸をもたらすことになりかねない。

たとえ父親の立場からすれば、それが愛情の表れだとしても、もし息子が経営者として不適格であると判断される場合、どのような選択をするのが最善なのか問われるべきだ。自分が同じ立場に立たされたらどうするだろうか。息子の人生を尊重し、適した道を見つけてあげるのが本当の愛情ではないだろうか。

M社の専務は社長の長男で、まだ三十歳には達していない。現在は営業部長も兼務しており、若さも相まって可能性を秘めているが、そのポテンシャルをどう引き出し、どのような方向性で成長させるべきか、慎重に見極める必要があるように思える。

専務の直接の部下だけでなく、社内全体の評判が極めて悪く、ほとんど総スカン状態になっている。もちろん、部下からの評判が悪いというだけでその人物を断じるのは早計かもしれない。しかし、私の目から見ても、専務はただ威張り散らしているだけで、リーダーとしての能力がほとんど感じられない。この状況では、どうしても部下たちの評価に同調せざるを得なくなってしまう。無能さが目に余る以上、専務がリーダーの座にふさわしいとは到底思えない。

父親である社長も、息子の評判が何かしら耳に入らないはずはない。むしろ、社内以上に外部からの情報が多く届いている可能性が高いだろう。その評判を社長がどう受け止めているのか、そしてそれに基づいて何を考え、どのような判断をしようとしているのかが気になるところだ。父親としての愛情と、経営者としての責任との間で、少なからず葛藤があるはずだが、それをどう解決しようとしているのだろうか。もしかすると、耳に痛い現実から目を背けているのかもしれない。

恐らく、社長は自らの手で息子を教育し、経験を積ませることで、経営者として一人前に育て上げようとしているのだろう。しかし、私の目から見れば、専務は経営者としての素質に欠けており、「瓦」のような存在だと思わざるを得ない。どれだけ磨いたとしても、瓦が宝石に変わることはない。教育や経験ができるのは、もともと備わっている能力を引き出すことであり、持っていない能力を新たに与えることは不可能だ。これは、私自身がこれまでの職業を通じて痛感してきた現実である。

能力があり、真剣に経営に取り組んでいるものの、要点を見誤ったり、方向を間違えたり、内部管理にばかり意識を集中させてしまうこともある。しかし、優れた社長であれば、私と話し合う中でその間違いにハッと気づき、すぐに正しい方向へ舵を切る。その瞬間から、会社の流れは大きく変わり、業績も向上していくものだ。そうした柔軟な思考と修正力こそが、優れた経営者の資質だと実感させられる。

私が話す内容といえば、公開されている事例から得た教訓や、その会社自身の数字をもとにした分析が中心であり、高尚な理論や難解な概念などは一切ない。それにもかかわらず、優れた社長はその限られた情報の中から、自分の会社にとって正しい方向性を的確に見いだしていく。その能力こそが、経営者としての真の資質を物語っている。

それに対して、凡庸な社長の場合は、どれだけ繰り返し失敗の教訓を伝え、目に見える形で会社の危険な傾向を数字で示しても、全く響かない。理解しようとする姿勢もなく、状況を改善しようとする動きも見られない。このような反応では、経営者としての資質以前に、危機感すら欠如していると言わざるを得ない。

社長が自らの会社の将来の方向性を正しく見定めてくれなければ、私としても打つ手が限られてしまう。このような状況に直面すると、自分の能力の不足を痛感せざるを得ない。そして、人を説得することの難しさ、特に経営者に危機感を持たせて行動を促すことの困難さを、改めて思い知らされるのだ。結局のところ、会社を導くのは社長自身であり、その意思が欠けていれば、外部からの助言など意味をなさなくなる。

しかし、よく考えてみれば、自分は相手にない能力を無理に求めているのかもしれない。能力が備わっていない人間は、どれだけ他人から指摘や助言を受けても、できないことはやはりできないのだ。「人を見て法を説け」という諺があるが、それは社長に対しても例外ではない。相手の資質や限界を正しく見極め、それに合った助言やサポートをすることが、こちらの役割なのだと改めて気づかされる。

社長という職業は、単なるリーダーシップ以上に、非常に重い責任を伴うものである。それは難しく厳しい仕事であるだけでなく、「社員の生活を保障する」という重大な社会的責任を背負っている。この責任の重さは計り知れず、どのような困難があろうとも、会社をつぶしてはならないという使命感が求められる。会社を存続させることは、社員やその家族、そして取引先など多くの人々の生活を守ることに直結しているのだ。

だからこそ、社長という立場にある者は、わが子を後継者に据えることについて、単なる親としての愛情や、息子の「既得権」のような感覚にとらわれるべきではない。本当に会社を守り抜き、発展させていける能力を持っているのかを冷静に見極める必要がある。その判断を誤れば、会社だけでなく、社員やその家族、さらには取引先まで巻き込んだ大きな不幸を招く可能性があるのだから、親子の情を超えた責任ある決断が求められる。

親の七光りで息子を重役に据えること自体は容易い。しかし、もし息子にその役職に見合う能力が備わっていない場合、その七光りは単なる外見的なものでしかなく、実際に組織を動かす力や信頼を得る威力を発揮することはできない。結果として、周囲の不信を招き、会社全体の士気や運営に悪影響を及ぼす可能性が高い。役職は肩書きではなく、その職責を果たすための能力と覚悟があってこそ意味を持つものだ。

救いがたいのは、無能な息子ほど自分の限界に気づかず、七光りの恩恵を自分の実力だと勘違いしていることだ。しかし一方で、二世にも優れた能力を持ち、父親を超えると評される人物は多くいる。私自身も、そのような人々を数多く見てきた。彼らに共通しているのは、「自分の立場は七光りのおかげで成り立っている」と冷静に認識していることだ。その言葉を聞くたびに、私はホッと胸をなでおろす。自分の立場を正しく理解している人こそ、責任感を持ち、さらに成長する可能性を秘めているからだ。

優れた社長の息子といえども、できの良い息子もいれば、そうでない息子もいる。その違いを見極めることなく、すべてを一括りにして会社の重役に据えるようなやり方では、「同族経営」と批判されても仕方がない。同族経営そのものが悪いわけではないが、能力や適性を無視した人事が行われると、組織全体の信頼を損ない、経営の健全性にも悪影響を及ぼしかねない。会社の将来を託す相手を選ぶにあたっては、血縁以上に実力を重視するべきだ。

同族経営そのものが悪いわけではない。実際、諸外国や日本国内には、同族経営でありながら卓越した経営を行い、成功を収めている企業が数多く存在する。問題なのは、同族であることを理由に、無能な者が経営者の地位につくことだ。そのような人事が行われれば、会社全体の方向性が狂い、組織としての力を発揮できなくなる。同族経営を成功させるためには、血縁よりも能力や適性を優先し、責任ある判断を下すことが不可欠である。

社長が自分の事業を継がせる者を選ぶ際には、血縁に基づく「同族だから」という理由ではなく、この事業を引き継ぎ、責任を持って立派に発展させる能力を持った人物は誰なのか、という観点を最優先してほしい。その判断ができるかどうかが、事業の未来を左右する重要な分岐点となる。後継者選びは、単なる家族の延長ではなく、会社の存続と発展をかけた経営の一部であることを、深く認識してもらいたい。

この観点に基づいて選ばれた後継者であれば、それが息子であろうと他人であろうと全く問題はない。同族経営そのものを批判する「同族アレルギー」に陥る必要など全くないのだ。重要なのは、後継者が事業をしっかりと引き継ぎ、発展させていける能力と覚悟を持っているかどうかであり、血縁はその選択において本質的な要素ではない。

社長が息子を後継者にする際、単に「七光り」で昇進させることは避けるべきだ。例えば、T工業の専務も、息子という立場を活かしつつも実際には経営力が伴わず、新事業を任されても計画すらまともに進められない。彼に経営者の素養が欠けているのは明白であり、親の庇護がなくなったときに初めて真剣になるのかすら怪しい状況だ。

一方で、Z社の専務は学歴も理解力も高く、知的な人物だが、行動力に欠ける。彼の性格や希望と、実際の業界の激しい競争や重圧が合わないことは明らかだが、これを察した父親がどう対応するかが会社の将来に直結する。

社長業は容易ではなく、社員の生活を支え、社会的責任を果たす重責がある。そのため、後継者を単に親の立場で昇進させるのではなく、真に経営者としての能力が備わっているかどうかを見極めることが肝要だ。二世の中にも優秀な人材は多く、実際に「自分は七光りに支えられている」と謙虚に語る人もいる。こうした自覚のある後継者こそ、真の意味で経営を担うにふさわしい。

同族経営自体が悪いわけではなく、同族であっても無能者が地位を占めることが問題である。後継者選びに際して、血縁にとらわれず、この事業をしっかりと引き継げる能力のある者を選ぶべきであり、時には他人をも後継に据える柔軟さが、事業の未来を明るくする鍵となる。

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

この記事を書いた人

コメント

コメントする

CAPTCHA


目次