世に立つ者は、ただ利を追うにあらず。
根に持つべきは、武士のごとき誠と節。これを失えば、人の信用も、事業の礎も揺らぐ。
されど、士魂のみで世を渡ることは叶わぬ。商才なき誠実は、清貧に過ぎず、志半ばにして潰える。ゆえに、士魂と商才を兼ね備えるべし。
真の商才とは、道徳を基にして成るもの。誠実を旨とし、人を欺かず、浮利に流されぬ心を持つこと。
詐術や軽佻浮薄(けいちょうふはく)な振る舞いによって得る利は、才にあらず、むしろ害をなす。
論語は、士魂の鍛錬に最適な書。心を磨き、商いに活かす。
利を制し、義を貫く者こそ、永く人に信頼され、道を開く。
人間の世の中に立つには、武士的精神の必要である……しかし、武士的精神のみに偏して商才というものがなければ、経済の上から自滅を招く……ゆえに士魂にして商才がなければならぬ。……論語は最も士魂養成の根底となるものと思う。……その商才というものも、もともと道徳をもって根底としたものであって、道徳と離れた不道徳、詐瞞、浮華、軽佻の商才は、いわゆる小才子、小悧口であって、決して真の商才ではない。 渋沢 栄一. 論語と算盤
参考文献:
- 論語
- 葉隠
- 武士道
昔、菅原道真は和魂漢才ということを言った。
商才も論語において充分養えるというのである。
そのうちでも最も戦争が上手であり、処世の道が巧みであったのは、徳川家康公である。処世の道が巧みなればこそ、多くの英雄豪傑を威服して十五代の覇業を開くを得たので、二百余年間、人々が安眠高枕することのできたのは実に偉とすべきである。
そのうちでも最も戦争が上手であり、処世の道が巧みであったのは、徳川家康公である。
種々の訓言を遺されている。かの「神君遺訓」なども、われわれ処世の道を実によく説かれている。しかしてその「神君遺訓」を私が論語と照らし合わせてみたのに、実に符節を合わするがごとくであって、やはり大部分は論語から出たものだということが分かった。
ゆえに私は人の世に処せんとして道を誤まらざらんとするには、まず論語を熟読せよというのである。現今世の進歩に従って、欧米各国から新しい学説が入って来るが、その新しいというは、われわれから見ればやはり古いもので、すでに東洋で数千年前に言っておることと同一の者を、ただ言葉の言い廻しを旨くしておるに過ぎぬと思われるものが多い。欧米諸国の日進月歩の新しい者を研究するのも必要であるが、東洋古来の古い者の中にも捨てがたい者のあることを忘れてはならぬ。
しかし、当時の日本では商売の力がいちじるしく弱く、最も振るわない分野であった。商売が盛んでなければ、国全体の富も増やすことはできない。だからこそ、他の分野と並行して、商業をどうにかして興さねばならないと考えたのだった。
その頃の風潮では、商売に学問は不要だというのが通念で、むしろ学問など身につけると害になるとも言われていた。「貸家札唐様で書く三代目」という言葉に象徴されるように、教養や格式を身につけた三代目は経営を傾けやすい、という見方が一般的だった。
だが、自分はあえてその考えに背を向け、学問の力で利を生み出し、商いを立て直そうと決意し、商人としての道へ進んだのだった。
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