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誠のない儀式は、形だけの空虚な所作にすぎない

礼の本質は、内なる誠意にある。
いかに由緒ある儀式であっても、そこに誠がなければ、見るに値しない。
「禘(てい)」の祭りは本来、天子のみが行うべき神聖な儀式である。魯の国がこれを例外的に行うことを許されたとはいえ、形式に流れて心が伴わなくなれば、それは本来の意味を失ってしまう。
孔子は、酒を地にそそぎ神を迎える初期の儀までならばまだしも、その後の部分には誠意が感じられないとして、もはや目を向けたくないと語った。

「禘(てい)は既(すで)に灌(かん)して自(よ)り、而(しか)して往(おく)るは、吾(われ)、之(これ)を観(み)るを欲(ほっ)せず」

形をなぞるだけでは、礼にはならない。誠なき儀式は、むしろ本質を汚す。


※注:

  • 「禘(てい)」…天子が祖先を祀る最も重要な祭礼。
  • 「灌(かん)」…神を迎えるため、酒を地にそそぐ降神の儀式。
  • 「而往(じこう)」…そこから先の一連の儀式のこと。
  • 「観るを欲せず」…見るに堪えない、という強い否定。
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