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礼も、形式ではなく真心を重んじ、状況に応じて変えてよい

斉の宣王は、父母の死に対して行う「三年の喪」が長すぎると感じ、これを短縮しようと考えた。これに対して、弟子の公孫丑が孟子に問うた。「一年の喪でも、全く喪を行わないよりは良いのではありませんか?」

孟子はこれに対し、次のように例えて答えた。

「それは、誰かが兄の腕をねじ上げているときに、“もう少しゆっくりねじればいい”と言うようなものだ。問題は“ねじること”そのものにあり、そこには親に対する敬意がない。喪についても同じで、三年の喪を勝手に短くしようとするのは、礼に背き、孝の心を損なう」

しかし、孟子は続けて、別の具体例においては柔軟な判断を示す。

ある斉の王子が、妾腹の母の死に対し、正妻の子ではないために三年の喪を行うことをためらっていた。守役は王子の気持ちをくんで、せめて数ヶ月だけでも喪に服するよう願い出た。この件について公孫丑が再び尋ねると、孟子はこう答えた。

「これは、三年の喪を本当は行いたくても、立場上できない事情がある。だから、一日でも喪に服すれば、それだけで心がこもっており、何もしないよりずっと良い。前に私が言ったのは、誰にも止められていないのに、自ら進んで喪を軽くしようとするような場合のことだ」

「孟子曰く、之を終えんと欲するも、得べからざるなり。一日を加うと雖も、已むに愈れり。夫の之を禁ずる莫くして為さざる者を謂うなり」

形よりも、心。
孟子は、礼は形式を守ることに意味があるのではなく、その根底にある孝と誠意こそが大切であると説く。やむを得ない事情で形式通りにできなくても、真心があればそれは「礼」にかなっている。逆に、自ら進んで義務を軽んじようとするのは、礼を損なうものである。

※注:

  • 「三年の喪」…父母の死後、3年間公務や娯楽を絶ち、哀悼の意を表す儒教の大礼。
  • 「朞の喪(きのも)」…一年の喪。三年の喪を短縮した形式。
  • 「紾らす」…腕をねじ上げること。暴力や強制の比喩。
  • 「虚礼」…心なき形式的な礼。
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