孟子はこの章で、「義=正しさ」は、命(=生)よりも価値があるという道徳観を、鮮やかな比喩と論理で説いています。
この一節は、孟子の義を基準とする倫理観=義本思想の中核であり、命がけでも守るべき価値があるという道徳の重みを強調しています。
魚と熊掌のたとえ:より価値あるものを選ぶという直観
孟子はまず、身近な欲望の対象をたとえに出します:
「魚は私の欲するものである。熊掌(ゆうしょう)も私の欲するものである。
だが、二つを同時に得られないなら、私は魚を捨てて熊掌を取る」
これは、どちらも好ましいが、より価値のあるものを選ぶという人間の基本的な判断能力を示しています。
生と義の関係:欲するものの中にも優先順位がある
次に孟子はこのたとえを、道徳の問題に重ねます:
「生もまた私の欲するものであり、義もまた私の欲するものである。
だが、二つを同時に得られないなら、私は生を捨てて義を取る」
ここで孟子は、義=道徳的正しさが、生=命よりも高い価値を持つという、きわめて厳格な倫理的立場を示しています。
- 生は確かに望ましいが、もっと大事なもの(義)がある
- 死は確かに恐ろしいが、もっと憎むべきもの(不義)がある
この構造により、孟子は「人は善を守るためならば死もいとわない」という倫理観を打ち出しています。
生を捨てて義を取るという覚悟:苟も得ることをせず
孟子は言います:
「生きることは欲しいことである。しかし、欲しいことのなかにも、生よりも上位にあるものがある。
だからこそ、“苟(いや)しくも得る”=どんな形でも生きようとはしない」
また、
「死は嫌なことである。しかし、死よりももっと嫌なこと(=不義)がある。
だから、災難(患い)があっても、不義をしてそれを避けようとは思わない」
この一節の背後には、孟子の強い精神的自律と倫理的誇りが貫かれています。
出典原文(ふりがな付き)
孟子(もうし)曰(いわ)く、
魚(うお)は我が欲する所なり。熊掌(ゆうしょう)も亦(また)我が欲する所なり。
二者(にしゃ)兼(か)ぬることを得(え)ずんば、魚を舎(す)てて熊掌を取る者なり。
生(せい)も亦我が欲する所なり。義(ぎ)も亦我が欲する所なり。
二者兼ぬることを得ずんば、生を舎てて義を取る者なり。
生も亦我が欲する所なれども、欲する所、生より甚(はなは)だしき者あり。
故に苟(いや)しくも得ることを為(な)さざるなり。
死(し)も亦我が悪(にく)む所なれども、悪む所、死より甚しき者あり。
故に患(うれ)いも辟(さ)けざる所有(あ)るなり。
注釈
- 熊掌(ゆうしょう):熊の手のひら。高級珍味のたとえで、ここでは「義」に対応する象徴。
- 苟得(こうとく):どうにかして、手段を選ばずに得ること。ここでは「不正でも生き延びようとすること」を意味。
- 患(うれ)いも辟(さ)けざる所有り:たとえ災難(死の危機)があっても、不義で避けることはしない。
パーマリンク候補(英語スラッグ)
righteousness-over-life
「義は命より重い」という孟子の核心メッセージを直訳的に表現。
その他の候補:
- not-at-any-cost(どんな代償でも生きようとはしない)
- some-things-are-worth-dying-for(命をかけても守るべきものがある)
- choose-right-not-life(命より正しさを選べ)
この章は、孟子の道徳哲学のなかでも最も有名で、引用頻度の高い名言の一つです。
現代社会においても、「何があっても守るべき価値は何か」という問いに対して、
勇気と気高さ、精神の独立を示す羅針盤となるような章です。
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