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義もまた内にある――場面ごとの行動の違いは心の働きの表れ

義とは、内なる「敬う心」が外に現れたものにすぎない。
孟子の弟子・公都子は、「義は外にある」とする告子派の孟季子の詰問に一度は言い負かされるが、孟子は巧みな比喩と反証によってその誤りを論破する。
孟子の立場は一貫しており、たとえ水かけ論に見えても、「人の徳は本性(内)から発するもの」という信念を曲げない。


問答1:兄を敬するか、村人の年長者を敬するか

孟季子がまず公都子に尋ねる。

「あなたの兄と、兄より1歳年上の村人がいたら、どちらを敬しますか?」

→ 公都子:「兄を敬します。」

「では村の宴会でお酒を酌する順番は?」

→ 公都子:「年長の村人に先に酌します。」

孟季子はこれをもって、

「平常の敬意は兄、儀礼上の敬意は年長者。これは状況(=外)によって決まっている。だから義は“内”ではない」

と結論づけ、公都子は答えに窮してしまう。


孟子の反論:同じ構造で逆に問い返す

この報告を聞いた孟子は、次のように返すよう指示する。

「叔父と弟がいたら、どちらを敬するか?」

→ 孟季子:「叔父を敬します。」

「では、弟が祭祀の“かたしろ”を務める場合は?」

→ 孟季子:「弟を敬します。」

「では、叔父への敬意はどこへ行ったのか?」

→ 孟季子:「そのときは“かたしろ”という位にあるからだ。」

孟子はさらにこう締めくくる:

“かたしろ”という一時の位をもって敬するのなら、宴会で村人を敬するのも、その場における役割上のもの。
根本は常に“心にある敬意”によって行動している。だから義もまた内から出るものなのだ。」


飲食の例え:公都子の逆襲

孟季子はなお、「やはり義は外にある」と主張するが、公都子は今度はこう言って反論する:

「冬は湯を飲み、夏は水を飲む。これも外の状況によって選んでいる。
でもこれは心(=内)が欲して選んでいるのであり、“食色は性なり”という説とも矛盾しない。
義も同じく、状況を見て内心で決めるのだから、やはり内にあるのです。」

孟子の弟子らしい、形式にとらわれず本質で考える姿勢がここに現れている。


出典原文(ふりがな付き)

孟季子(もうきし)、公都子(こうとし)に問(と)うて曰(いわ)く、何(なに)を以(もっ)て義(ぎ)は内(ない)と謂(い)うや。
曰(いわ)く、吾(わ)が敬(けい)を行(おこな)う。故(ゆえ)に之(これ)を内と謂う。

郷人(きょうじん)、伯兄(はくけい)より長(ちょう)ずること一歳(いっさい)ならば、則(すなわ)ち誰(たれ)をか敬せん。
曰く、兄を敬せん。
酌(しゃく)まば則ち誰をか先(さき)にせん。
曰く、先(ま)ず郷人に酌まん。

孟子(もうし)曰く、叔父(しゅくふ)を敬すか。弟(てい)を敬すか。
彼(かれ)将(まさ)に曰(い)わんとす、叔父を敬す、と。
曰え、弟、尸(し)たらば、誰を敬す。
彼将に曰わんとす、弟を敬す、と。
子(し)曰え、悪(いず)くんぞ其(そ)の叔父を敬するに在らんや。
彼将に曰わんとす、位(くらい)の在るが故なり、と。
子亦(また)曰え、位の在る故なり。
庸(つね)の敬は兄に在り、斯須(ししゅ)の敬は郷人に在り。

公都子曰く、冬日(とうじつ)則ち湯(ゆ)を飲(の)み、夏日(かじつ)則ち水(みず)を飲む。然(しか)らば則ち飲食(いんしょく)も亦(また)外に在るか。


注釈

  • 公都子:孟子の弟子。真摯で素直な学徒としてたびたび登場。
  • 孟季子:告子学派の人物とされ、孟子とは立場を異にする。
  • 尸(し):祭祀で神霊の身代わりとして供物を受ける役目の人。
  • 庸の敬/斯須の敬:前者は「ふだんの敬意」、後者は「場に応じた一時的な敬意」。

パーマリンク候補(英語スラッグ)

righteousness-is-inward
義は内にあるという主張をそのまま強く打ち出したスラッグ。

その他の候補:

  • respect-through-role(役割に応じて敬する)
  • contextual-but-from-heart(状況判断でも心から)
  • inward-roots-of-virtue(徳の根は内にある)

この章は、道徳的判断が内心によって決まるという孟子の信念を守るため、
形式上は水かけ論のようでも一つ一つ丁寧に反証していく姿勢が見られます。
孟子の思想では、仁も義もともに人の本性=善なる心に由来することが何より大切なのです。

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