精神が充実していれば、たとえ粗末な布団で寝るような貧しい暮らしであっても、
天地の調和した気に満たされて、心はおだやかで、身体も元気に保たれる。
また、食事が質素であっても、心から「おいしい」と感じられるなら、
たとえ「あかざのあつもの(=藜羹)」のような粗食であっても、
人生のあっさりとした本当の味わい、「澹泊(たんぱく)」の妙を味わうことができる。
物質的な豊かさよりも、心の充実こそが、
人生に喜びとエネルギーをもたらすのだ。
「神酣(しんかん)なれば、布被(ふひ)の窩中(かちゅう)にも、天地沖和(ちゅうわ)の気(き)を得(え)。味(あじ)わい足(た)れば、藜羹(れいこう)の飯後(はんご)にも、人生澹泊(たんぱく)の真(しん)を識(し)る。」
人は、心が満ちていれば、
どこにいようと、何を食べていようと、
天地とつながり、人生の滋味をしっかりと味わうことができる。
その穏やかで静かな充実こそが、真の豊かさである。
※注:
- 「神酣(しんかん)」…精神が充実していること。深く満ちた精神状態。
- 「布被の窩中(ふひのかちゅう)」…粗末な布団で寝るような生活。貧しいが心静かな暮らし。
- 「天地沖和(ちゅうわ)」…天地自然のバランスがとれたエネルギー。調和された「気」。『老子』第四十二章にも通じる。
- 「藜羹(れいこう)」…あかざの葉で作った汁物。非常に質素な食事を意味する。
- 「澹泊(たんぱく)」…あっさりして執着のない生活や心の在り方。清らかで淡々とした人生の美。
原文
神酣、布被窩中、得天地沖和之氣。
味足、藜羹飯後、識人生澹泊之眞。
書き下し文
神(しん)酣(たけなわ)なれば、布被(ふひ)の窩中にも、天地沖和の気を得。
味わい足らば、藜羹(れいこう)の飯後にも、人生澹泊の真を識る。
現代語訳(逐語/一文ずつ訳)
「精神が満ち足りていれば、粗末な布団の中であっても、天地の調和した清らかな気を感じられる」
→ 心が充実していれば、貧しく質素な生活の中にも自然の恩恵を深く感じ取ることができる。
「味に満足していれば、藜(あかざ)の汁という粗末な食事の後でも、人生の淡泊な真実を知ることができる」
→ 豪華な料理でなくとも、その素朴さに満足する心があれば、人生の本質的な喜びを味わえる。
用語解説
- 神酣(しんかん):精神が高ぶって満ち足りている状態。「酣」は「たけなわ」と読み、盛り上がっている最中という意。
- 布被窩中(ふひのかちゅう):粗末な布団の中。ここでは貧しい寝床の比喩。
- 天地沖和(てんちちゅうわ):天地自然の中にある穏やかで調和のとれた気(エネルギー)。沖和とは「偏りなく中正で調和のとれた状態」。
- 藜羹(れいこう):アカザ(雑草に分類されるが、食用にもされる植物)の汁。非常に粗食の象徴。
- 澹泊(たんぱく):あっさりしていて、欲望がなく、物事に執着しないこと。儒仏道いずれの伝統でも重要視される精神性。
全体の現代語訳(まとめ)
精神が充実していれば、たとえ粗末な布団の中にいても、天地自然の調和した気に包まれるような感覚を得られる。
また、素朴なアカザの汁であっても、味に満足できる心があれば、人生の淡泊さの中にある真の美しさや価値を実感できる。
解釈と現代的意義
この章句は、**「精神のあり方が、現実の質を決定する」**という東洋的な逆転の価値観を語っています。
- 物理的に“豊か”でなくとも、心の充足によって世界は豊かに見える。
- 高級品や贅沢に囲まれていなくても、質素な中に“足るを知る”ことこそが本当の満足。
- 「貧」と「満足」は矛盾しない。真に心が満ちるのは、外部の条件ではなく内面の状態。
ビジネスにおける解釈と適用(個別解説付き)
1. 「環境よりも“状態”が成果を左右する」
どれだけ整ったオフィスやツールを揃えても、心が整っていなければ生産性も創造性も生まれない。
逆に、粗末な設備でも、心が充実していれば、大きな成果が生まれる。
2. 「“満足する力”は、最強の持続可能スキル」
欲求を膨らませることなく、今あるものに感謝し活かす。これは、コスト削減・持続可能性・レジリエンスにも直結する能力。
3. 「豪華さより“深み”を重視する価値観づくり」
商品やサービスの価値も、“高価であること”ではなく、**「簡素でも心に沁みる体験」**で顧客の共感を呼ぶべき。
ビジネス用の心得タイトル
「満ち足りた心が、最も深く世界とつながる──簡素の中に真の豊かさを見よ」
この章句は、現代の“飽和社会”において、
「心の質」こそが体験の質を決定するという真理を再確認させてくれます。
静かに微笑み、質素な生活に深い充足を感じる人こそが、
本当の意味で“豊か”であり、持続可能な幸福のモデルといえるでしょう。
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