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言葉に責任を持つには、証拠と裏付けが必要である

孔子は古代の夏や殷の礼についてよく語ったが、それを現代に説くには「証拠」が必要であると自ら認めていた。
たとえば、夏の子孫である杞(き)や、殷の子孫である宋(そう)には、礼を証明するに足る文献や賢人の記録が残っておらず、話の裏付けが弱くなってしまう。
どれほど知っていることがあっても、それを確かなものとして伝えるには、証拠や記録、知識に基づいた根拠が不可欠である。
人として学び、語り、教えるならば、「知っている」と「証明できる」は別物であることを肝に銘じなければならない。

「夏(か)の礼(れい)は吾(われ)能(よ)く之(これ)を言(い)えども、杞(き)は徴(しょう)するに足(た)らざるなり。殷(いん)の礼は吾能く之を言えども、宋(そう)は徴するに足らざるなり。文献(ぶんけん)の足らざるが故(ゆえ)なり。足らば則(すなわ)ち吾能くこれを徴せん」

確かな根拠に裏打ちされた言葉でなければ、人を導く力を持たない。語る前に、証を持て。


※注:

  • 「夏・殷」…古代中国の王朝。礼(儀礼や社会規範)の起源とされる。
  • 「杞(き)」…夏の子孫国家。証拠に乏しかった。
  • 「宋(そう)」…殷の子孫国家。同様に資料が乏しかった。
  • 「徴(しょう)」…証拠として示すこと、裏付けること。
  • 「文献」…もとは文書と賢人を意味する。現在の「資料・文書」に近い。
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