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五感に支配されるな、たづなを取る者となれ

私たちは、日々、何かを「欲しい」と感じながら生きている。
新しい服、甘いもの、成功の証、誰かの称賛……
これらはすべて、**カーマ(欲望)**として心の中に生まれ、
気がつけば私たちを動かし、悩ませ、振り回す。

人が感官の対象を思う時、それらに対する執着が彼に生ずる。執着から欲望が生じ、欲望から怒りが生ずる。(第 2章 62節)

怒りから迷妄が生じ、迷妄から記憶の混乱が生ずる。記憶の混乱から知性の喪失が生じ、知性の喪失から人は破滅する。(第 2章 63節)

『バガヴァッド・ギーター』は明確に語る。
「欲望、怒り、貪欲――これは自己を破滅させる三つの地獄の門である」(第16章21節)
そして、こうした欲望はどこから生まれるのか。
それは、**五感(インドリア)**のはたらきに由来する。

目に映るもの、耳に入る声、口にする味、鼻で感じる香り、肌が触れる感触――
これら五感は、世界を知るための大切な窓である。
だが同時に、外界に引きずられる入り口でもある。

一つのスイーツに心が惹かれ、
一つの言葉に感情が動き、
一つの画面に時間を奪われる――
それが、「感覚を通して欲望が生まれる」ということである。

「人が感官の対象を思うとき、執着が生まれ、執着から欲望が、欲望から怒りが生まれる」(第2章62節)
「怒りから迷妄が生まれ、記憶が混乱し、知性が失われ、ついには破滅に至る」(第2章63節)

これは単なる比喩ではない。
「ちょっと見てみよう」「少し聞いてみよう」という小さな欲が、
やがて「絶対に欲しい」「なぜ手に入らない」と怒りへと変わり、
やがて自分を見失い、冷静さと判断を奪われていく――
これは、現代社会でも毎日のように起きている事実である。

五感は、暴れる馬のようなものだ。
「目に入る美しいもの」「耳に心地よい言葉」「舌に甘い味」――
それらを求めて、馬はどこまでも駆け出そうとする。
だからこそ、『ギーター』は言う。

すべての感官を制御して、専心し、私に専心して坐すべきである。感官を制御した人の智慧は確立するから。(第 2章 61節)

実に、動き回る感官に従う意は、人の智慧を奪う。風が水上の舟を奪うように。(第 2章 67節)

「感官を制御した者の智慧は確立する」(第2章61節)
「動き回る感官に従う心は、風が舟をさらうように智慧を奪う」(第2章67節)

欲望を否定する必要はない。
欲は、人間を成長させる力にもなる。
だが、そのたづなを持たずに放っておけば、
その馬は、私たち自身を崖の方へと連れていってしまう。

ヨーガとは、五感のたづなを握る訓練である。
目が見ても乱されず、耳が聞いても流されず、
味わっても執着せず、香っても支配されず、触れても奪われない。

「欲望の裏には苦しみがある」――
この理解を深めることで、私たちははじめて「欲望」に飲み込まれずに生きられる。
そして、何が本当に必要かを見極める静かな知性が育っていく。

欲望は、扱い方次第で毒にも薬にもなる。
五感の力を味方につけたとき、人生は自分の手の内に戻ってくる。

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