孟子は、『詩経』の言葉を文字通りに理解しようとする咸丘蒙に対し、文章の表面ではなく、その背後にある意志と趣旨を読み取ることの大切さを説いた。
舜が天子になった後も、父・瞽瞍を「臣下」とはしなかったのは、形式よりも親を尊ぶ心と孝の極致を重んじたからである。
言葉に囚われれば、詩の意味を見誤る――大切なのは、詩の中にある「志」=心を汲むことだという。
原文と読み下し
咸丘蒙(かんきゅうもう)曰く、舜(しゅん)の堯(ぎょう)を臣(しん)とせざるは、則(すなわ)ち吾(われ)既(すで)に命(めい)を聞くことを得たり。
詩に云(い)う、「普天(ふてん)の下、王土(おうど)に非(あら)ざるは莫(な)く、率土(そつど)の浜(ひん)、王臣(おうしん)に非ざるは莫し」と。
而(しか)して舜既に天子と為(な)る。敢(あ)えて問う、瞽瞍(こそう)の臣に非ざるは、如何(いかん)。孟子(もうし)曰く、是の詩や、是の謂(いい)に非ざるなり。王事(おうじ)に労(ろう)して、父母(ふぼ)を養(やしな)うことを得(え)ざるなり。曰く、「此れ王事に非ざること莫し。我(われ)独(ひと)り賢労(けんろう)す」と。
故(ゆえ)に詩を説(と)く者は、文(ぶん)を以(もっ)て辞(ことば)を害(そこ)なわず。辞を以て志(こころ)を害せず。意(こころ)を以て志を逆(むか)う。是れ之を得たりと為す。如(も)し辞のみを以てせば、『雲漢(うんかん)』の詩に曰く、「周余(しゅうよ)の黎民(れいみん)、孑遺(けつい)有ること靡(な)し」と。斯(こ)の言(ことば)を信(しん)ぜば、是れ周に遺民無きなり。
孝子(こうし)の至(いた)りは、親(おや)を尊(とうと)ぶに過(す)ぐるは莫(な)し。親を尊ぶの至りは、天下を以(もっ)て養うに過ぐるは莫し。天子の父たるは、尊ぶの至りなり。天下を以て養うは、養うの至りなり。
詩に曰く、「永(とこし)えに言(こと)う、孝を思(おも)う。孝を思えば、維(こ)れ則(のっと)る」と。此れの謂(いい)なり。
『書』に曰く、「載(の)りて祗(つつ)しみて瞽瞍に見(まみ)え、虁虁(きき)として斉栗(せいりつ)す。瞽瞍亦(また)允(まこと)に若(しか)たり」と。
是(こ)れを以て、父得て子とせずと為す。
解釈と要点
- 「普天之下~」の詩は、親を臣下にすることを正当化しているわけではない。
これは王事に苦しむ者の不満を詠んだものであり、**「誰もが王事に仕えている、だが自分ばかり苦労している」**という不平を表している。 - 詩の解釈には、「辞(ことば)」だけでなく、「志(こころ)」すなわち作者の真意を汲む姿勢が必要。
- 舜が天子となった後も、父を臣下扱いしなかったのは、孝の極致であり、尊と養の最高のかたちだった。
- 『詩経』や『書経』の中にも、舜が父に対して深い敬意と慎みを持って接したことが記されており、瞽瞍も最終的にはそれに心から従ったとされる。
- 形式上は臣に見えても、実際はそうではなく、舜は常に「子」としての礼を失わなかった。
注釈
- 普天の下・率土の浜:天下・陸地全体を指す。支配の広がりを表現。
- 辞(ことば)・志(こころ):表現された言葉と、その奥にある作者の意志・精神。
- 虁虁として斉栗す:極めて慎んだ態度で接する様子。
- 孑遺有ること靡し:誰一人として残っていないという誇張的表現。
- 允とし若へり:心から納得し、受け入れた状態。
パーマリンク(英語スラッグ)
read-beyond-the-words
→「文字を超えて読む」、すなわち表面の言葉にとらわれず真意を汲むという主題を反映しています。
その他の案:
true-filial-respect
(真の孝と尊)heart-over-text
(言葉より心を)misreading-leads-to-misjudgment
(誤読は誤解を生む)
この章は、単なる言葉の分析ではなく、真に詩や歴史にこめられた精神を読む姿勢を説く、儒教的読解の中核です。
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