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君と賢者は友にあらず――地位と徳の秩序をわきまえる

位によって上下が定まる関係において、君主と臣下が「友」となることはあり得ない。
しかし、徳によって上下が逆転するならば、君主であっても賢者を師として敬うべきであり、ましてや呼びつけてはならない。

孟子は、魯の繆公(ぼくこう)が子思にたびたび会いに来ていたことを語る。ある時、繆公は「昔の千乗の国の君主が、士を友とした例もあるが、どう思うか」と問うた。
子思はそれを不快に思い、こう答えた――
「古人の言葉に、賢者ならば仕えるべき者には仕えるとは申しておりますが、友になるとは申しておりません」と。

子思の不快の理由はこうである。
地位の上では、君主(繆公)に対して自分(子思)は臣であり、友となるべきではない。
しかし徳の上では、君主こそが自分に師事すべき者であり、やはり友となるべきではない。

よって、君主と賢者が「友になる」ことは成立しない。
そのような立場の者を、呼びつけるなど言語道断である。


出典原文(ふりがな付き)

繆公(ぼくこう)、亟々(しばしば)子思(しし)を見る。曰(いわ)く、古(いにしえ)、千乗(せんじょう)の国、以(もっ)て士(し)を友(とも)とすること、何如(いかん)、と。
子思(しし)悦(よろこ)ばずして曰(いわ)く、古(いにしえ)の人、言(い)える有(あ)り。之(これ)に事(つか)うと云(い)うと曰(い)わんか。豈(あ)に之(これ)を友(とも)とすと云(い)うと曰(い)わんや、と。
子思(しし)の悦(よろこ)ばざるは、豈(あ)に曰(い)わざるや。
位(くらい)を以(もっ)てすれば、則(すなわ)ち子(し)は君(きみ)なり。我(われ)は臣(しん)なり。何(なん)ぞ敢(あ)えて君(きみ)と友(とも)たらん。
徳(とく)を以(もっ)てすれば、則(すなわ)ち子(し)は我(われ)に事(つか)うる者(もの)なり。奚(なん)ぞ以(もっ)て我(われ)と友(とも)たるべけんや、と。
千乗(せんじょう)の君、之(これ)と友(とも)たらんことを求(もと)むるも、得(え)べからざるなり。而(しか)るを況(いわ)んや召(め)すべけんや。


注釈

  • 千乗の国:軍用車千台を保有する中規模諸侯国。繆公のような諸侯の例。
  • 士を友とする:教養ある庶民と対等に交わること。だが、形式上は不適切とされた。
  • 事(つか)う:仕える。師として敬い従うこと。
  • 友たるべし:対等な関係として交わること。
  • 徳を以てすれば…:地位でなく道徳的資質を基準とした場合の序列。
  • 召す:目上の者が目下を呼びつける行為。ここでは無礼を意味する。

パーマリンク候補(英語スラッグ)

rank-and-virtue
「位と徳の関係」を示す対比的で簡潔な表現。

その他の候補:

  • no-peer-with-the-wise(賢者と友にはなれない)
  • honor-over-equality(対等ではなく敬意を)
  • cannot-summon-a-master(師は呼びつけられない)

この節では、賢者の礼節を貫いた子思と、徳においてこそ上下が決まるという孟子の哲学が明瞭に語られています。

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