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欲を超えし者に、行方を問うは無意味なり


目次

🔖 原文(日本語訳)

「欲望の泥沼をわたりおわって、
完全に解脱して、不動の楽しみを得た人々の行方を知らせることはできない。」
――『ダンマパダ』第5章「愉楽品」第36偈


📝 逐語訳と概説

  • 欲望の泥沼をわたりおわって
    → 欲(貪)・怒(瞋)・無知(痴)といった三毒の中を渡り切ったこと。輪廻を生む執着をすべて乗り越えたという比喩。
  • 完全に解脱して
    → 生死・苦悩・迷妄のすべてから自由になったこと。すなわち「涅槃」に到達。
  • 不動の楽しみを得た
    → 変化せず、失われず、揺らがない至福。これは「アサンカーラ(非形成)」「アスンカ(不動)」と呼ばれる。
  • 行方を知らせることはできない
    → それはもはや「どこにいる」「何になった」という言葉で表せない、超越の境地。生と死の概念を超えているため、「行方」は物理的にも概念的にも説明不能。

🧩 用語解説

用語解説
泥沼(サンカーラ)欲・怒り・無知といった煩悩の深みにたとえた言葉。
解脱(ヴィムッティ)煩悩・束縛・業(カルマ)の連鎖からの完全な自由。
不動(アチャラ)動揺せず、変化せず、因果からも超越した状態。
行方を知らせることはできない涅槃を得た者は、存在・非存在のいずれでもない。問い自体が成立しない。

🌐 全体の現代語訳(まとめ)

欲望という深い泥沼を超え、
すべての執着と迷いから完全に解き放たれた者は、
揺るぎない安らぎの中にいる。
だが、その人が「どこへ行ったか」「どうなったか」を問うことはできない。
――それは、もはや問いようがない、超越の世界であるからだ。


💡 解釈と現代的意義

この偈は、仏教が説く「涅槃(ニルヴァーナ)」の性質について象徴的に教えています。

  • 「解脱した者の行方は、説明できない」
    これは、物理的な死後の存在ではなく、「自己」というものが完全に消え去った状態を指します。
  • 不動の楽しみとは、外界に左右されず、結果にも支配されない、心の完全なる平安です。
  • 現代的に言えば
    「何にも期待せず、何にもとらわれず、それでいて深く満ち足りている心の在り方」
    ――これこそが最も高次の「安らぎ」として描かれているのです。

🏢 ビジネスにおける解釈と適用

観点解釈・適用例
結果への執着からの自由成功や評価に縛られず、ただ正しく為すべきを為す人は、外界に動じない「不動の平安」を得る。
プロフェッショナルの完成真に成熟した人物は、「何をしたか」ではなく、「どう在るか」で語られるようになる。
働き方の最終目標富・名声・成果の果てに、求められるのは「心の安定」であり、「問いのない状態」。
脱「他者基準」周囲の評価や環境変化に振り回されない働き方こそ、次世代リーダーに求められる姿勢。

✅ 心得まとめ

「解脱とは、問いすら消える境地。」

欲望の嵐をくぐり抜け、
心を磨き、すべての束縛から離れた人は――
「どこへ行ったのか」と問うことすら意味を持たない。
彼らはただ、不動の安らぎの中にある。

「何者にもなろうとしない者こそ、最も高く、最も静かである。」


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