孟子は、他人や天下を正そうとする者が、まず自らの行いを潔くすることが前提であると明言する。
どれほど偉大なことを成すにしても、身を辱めたり道義に反する手段を取ってはならない。
そして伊尹の逸話を引きつつ、「料理人として取り入った」などという俗説を否定し、彼が湯王に仕えたのは仁義の道に基づいた行動であったことを強調する。
行動の形はさまざまであれ、最終的に「聖人の道」はすべて“身を潔くすること”に帰着するのだ。
原文と読み下し
吾(われ)未(いま)だ己(おのれ)を枉(ま)げて人を正す者を聞かざるなり。況(いわ)んや己を辱(はずか)しめて以(もっ)て天下を正す者をや。
聖人(せいじん)の行(おこな)いは同(おな)じからざるなり。
或(ある)いは遠(とお)ざかり、或いは近(ちか)づき、或いは去(さ)り、或いは去らず。
其(そ)の身を潔(きよ)くするに帰(き)するのみ。吾れ其の堯舜(ぎょうしゅん)の道(みち)を以(もっ)て湯(とう)に要(もと)むるを聞く。
未だ割烹(かっぽう)を以てするを聞かざるなり。『伊訓(いくん)』に曰く、
「天誅(てんちゅう)攻(こう)むることを造(つく)すは牧宮(ぼくきゅう)よりす。朕(ちん)は亳(はく)より載(おこ)す」と。
解釈と要点
- 他人や天下を正すには、まず自らの人格・行いを正すことが絶対条件である。
自分を曲げたり辱めておきながら、それで人を導けるはずがない。 - 聖人には様々な生き方がある――仕える者、退く者、留まる者、去る者――だが、共通しているのは「自らを潔く保つこと」。
- 伊尹が湯王に仕えたのは、あくまで堯舜の道(仁義)に基づいた正当な行為であり、俗説のような「料理人としての迎合」は根拠のない噂にすぎない。
- 『書経』「伊訓篇」における引用も、伊尹が正義の討伐(天誅)を主張したのは、湯の都・亳において始まったという証拠とされ、彼の行動が仁義に基づいていたことを裏付けている。
注釈
- 己を枉げて人を正す者:自分の信条を曲げながら人を導こうとする矛盾。孟子の思想において許されない姿勢。
- 身を潔くする:行為・心・志を正しく保ち、誠実な態度で生きること。
- 割烹(かっぽう):料理、あるいは料理人として取り入ること。ここでは伊尹が媚びたという説を指す。
- 伊訓篇:『書経』の一篇で、伊尹の事績と発言を伝える文献。
- 牧宮:桀王の宮殿、討伐の対象。
- 亳(はく):湯王の都。義の起点。
パーマリンク(英語スラッグ)
purity-before-power
→「力を持つ前に身の潔さを」という孟子の核心思想を直接表現したスラッグです。
その他の案:
no-rule-without-integrity
(誠なき者に統治なし)rectify-self-then-world
(まず己を正し、それから天下を)true-leadership-starts-with-character
(真のリーダーは品格から始まる)
この章は、孟子が重視する「道徳的な自己完成」と「誠実さ」が、すべての政治的・社会的行動の前提であることを明示しています。
コメント