— 褒める言葉の軽さが、人となりを物語ることもある
貞観二十一年、太宗が翠微宮に滞在していた時のこと。
彼は、穀物を司る司農卿の李緯を、新たに尚書省の戸部尚書(財政担当の長官)に任命した。
その頃、宰相・房玄齢は長安に留まり、政務を預かっていた。
ある日、都から使者が翠微宮を訪れた際、太宗はその者に尋ねた。
「房玄齢は、李緯を戸部尚書に任じたことについて、何と言っていたか?」
その使者はこう答えた。
「房玄齢殿は『李緯の鬚は実に立派だ』と申しておりました。それ以外のことは何も言われていません」
それを聞いた太宗は、すぐに察した――
房玄齢の言葉は、遠回しな批判だったのだ。人物を評価する際に、その人物の能力や人格ではなく「容貌」、それも「鬚(ひげ)」のことしか言わなかったのは、つまり李緯に官僚として称賛すべき資質が見当たらなかった、という意味にほかならない。
太宗はすぐにその意を汲み取り、李緯を中央から外して、地方長官である洛州刺史に配置転換した。
ふりがな付き引用
「貞(じょう)観(がん)二十一年(にじゅういちねん)、太宗(たいそう)、翠微宮(すいびきゅう)に在(あ)り、司農卿(しのうけい)李緯(りい)をして戸部尚書(こぶしょうしょ)に授(さず)けしむ。
房玄齢(ぼうげんれい)、是(こ)の時(とき)京(けい)に留守(りゅうしゅ)す。
会(たまたま)京師(けいし)より来(きた)る者(もの)有(あ)り、太宗問(と)うて曰(いわ)く、
『玄齢、李緯を戸部尚書に拝(はい)すを聞(き)きて、如何(いかん)』。
対(こた)えて曰(いわ)く、
『但(ただ)「李緯は大(おおい)に髭鬚(ししゅ)好(よ)し」と云(い)うのみ、更(さら)に他(た)の語(ことば)無し』。
是(ここ)に由(よ)って、改(あらた)めて洛州刺史(らくしゅうしし)に授(さず)く。」
注釈
- 司農卿(しのうけい):穀物管理を司る役職。経済・農政の中核。
- 戸部尚書(こぶしょうしょ):財政・戸籍を管轄する要職。朝廷の資源を支える存在。
- 刺史(しし):州を治める長官。中央から地方への人事異動に相当。
- 「大好髭鬚」:見た目をほめるしかない=人物として推す点がない、という婉曲な否定表現。
含意と教訓
この短いやりとりに込められたのは、「沈黙は時に強い批判である」というメッセージだった。
房玄齢は、はっきり批判を口にせずとも、要点を外した“ほめ言葉”だけで、太宗にその人物の不適格さを伝えた。
一方、太宗もまた、その真意を正しく読み取った――これこそ、君臣の信頼と、言外を察する政治の成熟を物語る一幕である。
コメント