梁の恵王が、「私は心静かに先生の教えを受けたい」と語りかけると、孟子はすかさず問いを投げかける。
「人を殺すのに棒(梃)で叩き殺すのと、刃物で斬って殺すのとに違いはありますか?」
恵王が「どちらも殺すことに変わりはない」と答えると、孟子はさらに踏み込む。
「では、刃で殺すのと、悪政によって民を死に至らせるのとに違いはありますか?」
王は再び、「違いはない」と答える。
ここで孟子が導き出したのは、為政者の無為や悪政が人命を奪うのと、暴力で人を殺すのとは道義的に何ら変わりはないという、極めて厳しい命題である。
引用(ふりがな付き)
「梁(りょう)の恵王(けいおう)曰(い)わく、寡人(かじん)願(ねが)わくは安(やす)んじて教(おし)えを承(う)けん。孟子(もうし)対(こた)えて曰く、人(ひと)を殺(ころ)すに梃(てい)を以(も)てすると刃(じん)と、以(も)って異(こと)なる有(あ)るか。曰く、以て異なる無(な)きなり。刃を以てすると政(まつりごと)と、以て異なる有るか。曰く、以て異なる無きなり。」
注釈
- 梃(てい)…棒、棍棒。物理的な暴力の象徴。
- 刃(じん)…剣や刀などの武器。明確な加害手段。
- 政(まつりごと)…ここでは、為政者による政治全般。悪政を含意する。
- 以て異なる有るか…「違いがあるか」という問答形式による論証。孟子の弁論術の典型。
パーマリンク案(英語スラッグ)
policy-can-kill
(政策もまた人を殺す)bad-governance-equals-violence
(悪政=暴力)killing-by-neglect
(怠慢による殺人)
補足:政治と倫理の極限の責任
この章の核心は、**「政治の失敗は暴力と同等の倫理的責任を伴う」**という点にあります。
孟子は、意図があろうとなかろうと、結果として人を飢えさせ、死に追いやるような統治は、刃物をふるったのと同じだと喝破します。これにより、為政者は常に「自分の行為・不作為が民の命に直結している」ことを自覚せよと訴えているのです。
この思考は、現代における行政責任、ガバナンス、リーダーシップにも応用が利きます。特に、貧困・飢餓・医療・災害対応の不備が人命に直結する現代において、この孟子の思想はなお一層の重みを持って響きます。
1. 原文
梁惠王曰、寡人願安承教。
孟子對曰、殺人以梃與刄、可乎?曰、不可。
以刄與政、可乎?曰、不可。
曰、則政亦與刄無異也。
※ 孟子の章句には細かな異文がありますが、意味の通じるよう整えた形で紹介しています。
2. 書き下し文
梁の恵王曰(い)わく、「寡人(かじん)、願わくは安んじて教えを承けん。」
孟子対(こた)えて曰く、「人を殺すに梃(てい)を以(もっ)てすることと刃(じん)を以てすることと、異なるところ有るか?」
曰く、「異なる無し。」
「では、刃(じん)を以てすることと政(まつりごと)を以てすることと、異なるところ有るか?」
曰く、「異なる無し。」
3. 現代語訳(逐語・一文ずつ訳)
- 「寡人、願わくは安んじて教えを承けん」
→ 恵王は言った。「どうか心安く教えをお聞かせ願いたい。」 - 「人を殺すに、棒で打つのと、刃物で刺すのとに違いはありますか?」
→ (孟子)「人を殺すのに、棍棒で殺すのと、刃物で殺すのに違いはありますか?」 - 「いいえ、違いはありません」
→ (王)「ありません。」 - 「では、刃物で殺すのと、悪政によって殺すのとに違いはありますか?」
→ (孟子)「刃物による殺人と、政治による殺人とに、違いはあるでしょうか?」 - 「ありません」
→ (王)「それも違いはありません。」
4. 用語解説
- 寡人(かじん):王侯の自称。「徳の乏しい者」の意で、謙譲表現。
- 梃(てい):棍棒、木の棒。暴力の道具。
- 刄(じん):刃物、刀剣。戦争や処刑の象徴。
- 政(まつりごと):政治。ここでは“悪政”を意味する含み。
5. 全体の現代語訳(まとめ)
恵王が言った。
「どうか落ち着いて教えを授けてください。」
孟子は答えた。
「人を殺すのに、棍棒で打ち殺すのと、刃物で刺し殺すのとに違いがありますか?」
恵王は言った。「それに違いはありません。」
孟子はさらに言った。
「では、刃物で殺すのと、悪政によって人を死に追いやるのとに、違いがありますか?」
恵王は言った。「それもまた、違いはありません。」
6. 解釈と現代的意義
この章句は、孟子が王に対して行った最も鋭い政治的警告の一つです。
孟子は、「政治によって人が死ぬことは、直接的に人を殺すことと何ら変わらない」と明言しています。
これは単なる比喩ではなく、統治者が民の生活を顧みずに放置すれば、その政策が“刃物”や“棍棒”と同じ役割を果たすという極めて厳格な責任論です。
「自分の手で殺していないから無罪だ」という逃げ口上を許さない、リーダーの道徳的責任と結果責任の一致を示しています。
7. ビジネスにおける解釈と適用(個別解説付き)
- 「やっていない」が「関与していない」にはならない
悪い制度、不透明な運用、過度な負荷が原因で部下が辞めた・病んだ。
それは「制度という刃物」で人を傷つけているのと同じ。リーダーは自分の“政”の結果から逃れてはならない。 - 「制度は正しく設計されているか」が問われる時代
制度疲労、名ばかり評価、成果主義の裏返しで人が追い詰められている場合、トップは“殺意”がなくとも“加害”している。 - 「やさしい言葉よりも、厳しい結果が人を殺す」
形式的な「頑張ってくれたね」ではなく、実質的な仕組み改善と人への配慮こそ、真の“仁政”。
8. ビジネス用の心得タイトル:
「制度の刃は見えない──“やっていない”でも“殺している”ことがある」
この章句は、政治リーダーに限らず、あらゆる責任ある立場に立つ人間にとっての根源的な自省を促す言葉です。
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