孟子は、民と楽しみを共にすべしと説いた前節に続き、かつての斉の景公と名宰相・晏子のやりとりを引き合いに出して、「真の君主の遊び」とは何かを語る。
斉の景公はあるとき、晏子にこう尋ねた。
「私は、転附や朝儛の山を見物し、海岸沿いに南下して琅邪まで行こうと思っている。
どうすれば、自分の巡行も先王たちのように尊ばれるものになるだろうか」
晏子は答える。
「おそれながら、それはとても良いご質問です。
天子が諸侯の領地を巡視することを**『巡狩』**と申します。
これは、諸侯が領地をしっかり治めているかを視察することを意味します。
また、諸侯が天子のもとを訪れ、職務の報告をすることを**『述職』**と申します。
どちらもただの遊興ではなく、重要な政務なのです」
さらに晏子は続けて説明する。
春には、耕作の状況を見て、農具や種など足りないものを補い、
秋には、収穫の様子を確認して、人手や労力が不足していれば助ける。
これが、先王たちの“遊び”の姿だった。
民の間にはこんなことわざがある。
「我が王が巡行してくださらなければ、我々は安心して休むことができない。
王が予(あらかじ)め備えをしてくださらなければ、我々は助かるすべがない」
このように、王の一つの「遊び」や「楽しみ」すら、民のための備えであり、助けとなっていた。
それが、先王たちの行動規範であり、王道の象徴だった。
こうした王の一つの“遊び”と“楽しみ”こそが、諸侯の模範だったのです」
この節では、孟子が晏子の言葉を通して、為政者の行動すべてが民のためにあるべきだという姿勢を強調しています。
王の「遊び」ですら、民の安寧を導くものであれば、それはまさに仁政の実践であるという、孟子流の哲理が凝縮されています。
原文
昔者、齊景公問於晏子曰:
吾欲觀於轉附・朝儛、循海而南、放於琅邪。
吾何修而可以比於先王之觀也?晏子對曰:善哉問也。
天子之適諸侯曰巡狩,巡狩者,巡其守也。
諸侯之朝於天子曰述職,述職者,述其職也。無非事者:
春省耕而補不足,秋省斂而助不給。夏諺曰:
吾王不遊,吾何以休?
吾王不豫,吾何以助?一遊一豫,為諸侯之度也。
書き下し文
昔(むかし)、斉の景公(けいこう)、晏子(あんし)に問うて曰(いわ)く:
「われ、転附(てんぷ)・朝儛(ちょうぶ)を観んと欲し、海に循(したが)って南し、琅邪(ろうや)に放(あそ)ばんと欲す。
われ、何を修(おさ)めて、以(もっ)て先王の観(かん)に比(ひ)すべきや?」晏子、対えて曰く:
「善(よ)きかな、問(と)いなり。天子の諸侯に適(ゆ)くを巡狩(じゅんしゅ)と曰う。
巡狩とは、その守(まも)る所を巡(めぐ)るなり。諸侯の天子に朝(ちょう)するを述職(じゅっしょく)と曰う。
述職とは、その職(つと)めを述(の)ぶるなり。事に非(あら)ざる者無し。
春は耕(こう)を省(かえり)みて足(た)らざるを補(おぎな)い、
秋は斂(おさ)むるを省みて給(た)らざるを助(たす)く。夏の諺(ことわざ)に曰く:
『吾(わ)が王遊(ゆう)せずんば、吾れ何を以て休(やす)まんや。
吾が王豫(よ)せずんば、吾れ何を以て助けられんや』と。一たびの遊び、一たびの喜びが、
諸侯の度(のり、模範)と為(な)るなり。」
現代語訳(逐語/一文ずつ訳)
- 斉の景公が晏子に問うた:
「私は、転附・朝儛を見学し、海沿いを南へ下り、琅邪で遊びたいと思っている。
どうすれば、私の“観”(巡遊)も先王のような立派なものとなるだろうか?」 - 晏子は答えた:「よい質問です。」
- 「天子が諸侯を訪ねることを“巡狩”といいます。
これは、諸侯が領地をきちんと守っているかを見回ることです。」 - 「諸侯が天子に謁見することを“述職”といいます。
これは、自分の仕事・責任をきちんと報告するということです。」 - 「つまり、どれも“単なる遊び”ではなく、“すべては公の仕事”なのです。」
- 「春は、農耕を点検し、不足があれば補い、
秋は、収穫状況を確認し、足りない民には支援を与えます。」 - 「夏のことわざに曰く:
“王が遊びに来てくれなければ、我々はどうやって休めばよいのか。
王が喜びを与えてくれなければ、どうして助けられたと感じられようか。”」 - 「王が一度でも視察し、一度でも喜びを表せば、
それが諸侯や民にとって“政治の基準”になるのです。」
用語解説
- 景公:斉の君主。享楽的な性格もあったが、晏子の補佐を重んじた。
- 晏子(晏嬰):斉の名臣。冷静な政策論と仁政思想で知られる。
- 観(かん):ここでは視察・巡幸・外遊などの意味。
- 転附・朝儛・琅邪:特定の祭礼・舞踏や地名で、景勝地や風俗の象徴。
- 巡狩(じゅんしゅ):王が諸侯の地を回って統治状況を視察する行為。
- 述職(じゅっしょく):諸侯が王に報告・謁見する儀式。
- 耕・斂:耕作・収穫。民生の基本。
- 遊・豫(よ):娯楽と喜びの意味。
- 一遊一豫、為諸侯之度:一回の“視察”や“訪問”でも、それが模範(リーダーの基準)になる。
全体の現代語訳(まとめ)
ある日、斉の景公が晏子に尋ねた。
「私は、各地を巡って舞や景勝地を見て回りたいと思っている。
それを先王のように価値ある巡遊にするには、何を心がければよいだろうか?」
晏子は答えた:
「とても良い質問です。
王が諸侯の地を回るのは“巡狩”と呼ばれ、領民の生活や秩序を確かめる意味があります。
また、諸侯が王を訪ねるのは“述職”と呼ばれ、仕事の進捗を報告する機会です。
つまり、“遊び”と見えることも、すべて“公の仕事”なのです。
春には農作の状況を見て、不足を補い、
秋には収穫の様子を見て、困っている人々を助けるのです。
夏の諺にはこうあります:
『王が訪れてくれなければ、我々は安心できない。
王が喜びを与えてくれなければ、支えられていると感じられない。』
王のたった一度の視察、一度の関心が、民にとっては大きな励みとなり、
それが“統治者の基準”として刻まれるのです。」
解釈と現代的意義
この章句は、「為政者の行動一つひとつに公共性が宿る」という厳格な政治倫理を示しています。
晏子は、王の外遊や視察が
- ただの娯楽に終わるか、
- 民の希望・統治の模範になるか
は、“心構え=仁政への意識”にかかっていると語っています。
つまり、トップの行動は全体に波及するメッセージであり、責任が伴うのです。
ビジネスにおける解釈と適用
「経営者の視察・会議参加=ただの確認ではない」
- トップが現場を見に行くとき、それが“祝祭”や“評価の場”になることもある。
→ 見に来た「だけ」ではなく、何を感じ、何を示すかが重要。
「“遊び”も“レジャー”も、リーダーの器を映す」
- 社員旅行、イベント参加、スピーチの一言──
すべてにおいて**“どのような想いをもっているか”が、文化を形成する。**
「一遊一豫が、全体の基準をつくる」
- 経営者が一度でも「よくやった」と認めれば、それが社員の努力の指針となる。
- 一度でも「軽んじた態度」を見せれば、それが組織の風土を蝕む。
まとめ
「一遊一豫に、統治の真価が現れる」
──リーダーの振る舞いは、文化と信頼をつくる“基準”になる
コメント