世の中でひとたび何か「事(こと)」が起これば、
たとえそれが善きことであっても、必ず同時に“弊害”が生じる。
ゆえに、真に幸せな世とは、
何事も起こらず、静かに時が流れている状態である。
古人の詩には、次のような句がある――
「君に勧む。封侯(ほうこう)の話など語るなかれ。
一将功成って、万骨枯る」
――たった一人の将軍が功績をあげる陰で、
どれほど多くの兵士が命を失ったか。
栄光の裏には、無数の犠牲がある。
もう一つの句ではこうも言う:
「天下が常に平和であるならば、
たとえ私は箱の中で使われぬまま千年朽ちようとも、それで本望だ」
――これは、武器の視点から詠まれたものである。
世の中が平穏なら、出番など来ずに一生を終える。
それが最上の役目なのだ。
これらの詩を読むとき、
たとえどれほど雄々しい心や勇ましい気概を持っていたとしても、
氷やあられが陽に溶けるように、
その気持ちはしだいに静まり、柔らかくなっていくだろう。
原文とふりがな付き引用
一事(いちじ)起(お)これば、則(すなわ)ち一害(いちがい)生(しょう)ず。
故(ゆえ)に天下(てんか)は常(つね)に事(こと)無(な)きを以(もっ)て福(ふく)と為(な)す。
前人(ぜんじん)の詩(し)を読むに云(い)う、
「君(きみ)に勧(すす)む、封侯(ほうこう)の事(こと)を話(はな)す莫(なか)れ。
一将(いっしょう)功(こう)成(な)って、万骨(ばんこつ)枯(か)る」
又(また)云う、
「天下常(つね)に万事(ばんじ)をして平(たい)らかならしむれば、
匣中(こうちゅう)、惜(お)しまず千年(せんねん)死(し)するを」
雄心(ゆうしん)猛気(もうき)有(あ)りと雖(いえど)も、
覚(おぼ)えずして化(か)して氷霰(ひょうさん)と為(な)る。
注釈
- 封侯(ほうこう):手柄を立てて諸侯に封じられること。出世・栄達の象徴。
- 一将功成って万骨枯る:唐の詩人・曹松の句。勝利の陰にある多くの犠牲を示す。
- 匣中(こうちゅう):箱の中にしまわれたままの武器のたとえ。出番のないことが本望。
- 氷霰(ひょうさん):氷やあられ。堅く冷たいものが陽光で解けていくことの比喩。
- 雄心猛気(ゆうしんもうき):勇ましい気概・気迫のこと。
関連思想
- 『老子』の不戦の思想:「兵は不詳の器」「勝ちて而も美ならず」など、武力を用いること自体への慎重な姿勢が見られる。
- 『論語』や儒教的視点では、「安定」と「道理」を重んじる傾向が強い。秩序こそが幸福の条件とされる。
パーマリンク案(英語スラッグ)
peace-is-the-true-victory
→「平穏こそが真の勝利である」という趣旨を表現。
その他候補:
- blessing-of-no-events(何も起こらぬことのありがたさ)
- quiet-world-best-world(静かな世が最善の世)
- better-rust-than-blood(血を流すより錆びつくほうがよい)
この章は、現代社会の「刺激」や「成果」重視の風潮に警鐘を鳴らすような、深く静かな教えです。
1. 原文
一事起則一害生。故天下常以無事爲福。讀前人詩云:「勸君莫話封侯事,一將功成萬骨枯。」又云:「天下常令萬事平,匣中不惜千年死。」雖有雄心猛氣,不覺化爲冰霰矣。
2. 書き下し文
一事(いっし)起(おこ)これば、則(すなわ)ち一害(いちがい)生(しょう)ず。
故(ゆえ)に天下(てんか)は常(つね)に事(こと)無(な)きを以(も)って福(ふく)と為(な)す。
前人(ぜんじん)の詩(し)を読(よ)めば云(い)う、
「君(きみ)に勧(すす)む、話(はな)す莫(なか)れ封侯(ほうこう)の事(こと)を。
一将(いっしょう)功(こう)成(な)って万骨(ばんこつ)枯(こ)る」。
又(また)云(い)う、「天下(てんか)常(つね)に万事(ばんじ)を平(たい)らかならしめば、匣中(こうちゅう)、惜(お)しまず千年(せんねん)死(し)するを」。
雄心(ゆうしん)猛気(もうき)有(あ)りと雖(いえど)も、覚(おぼ)えず氷霰(ひょうさん)と為(な)る。
3. 現代語訳(逐語/一文ずつ訳)
- 「一つの事を起こせば、必ず一つの災いが生まれる」
- 「だから、天下は常に“何事もないこと”を幸せとみなしてきた」
- 「古人の詩にこうある──『あなたに勧める。出世や戦功を語るな。一人の将軍が功を立てる陰で、無数の兵が命を落とすのだ』」
- 「またこうも言う──『天下が平和ならば、刀剣は鞘の中で千年眠っても惜しくはない』」
- 「どれほど勇ましい心や猛々しい気概があっても、気づけばそれも冷たく消え去る氷や霰のようになってしまう」
4. 用語解説
- 無事:事件や紛争がない状態。安定、平穏。
- 封侯:戦功や政治的功績で諸侯に封ぜられること=出世の象徴。
- 一将功成万骨枯:一人の将軍が栄光を得る裏で、万の兵が骨となって散っているという意味。杜牧『戦城南』などに由来。
- 匣中(こうちゅう):刀を納める鞘の中。転じて、使われずに眠っている兵器の意。
- 氷霰(ひょうさん):氷や霰(あられ)のように、固く冷たく、儚く消えるものの喩え。
5. 全体の現代語訳(まとめ)
何か一つ行動を起こせば、それに伴って必ず一つの害が生じる。
だから古来、天下は“何事も起こらぬこと”こそが最上の幸福であると考えてきた。
古人の詩にはこうある──
「出世の話などするな。一人の将軍の成功の陰で、どれほどの兵士が骨となって死んでいったか」。
またこうもある──
「天下が平和で万事穏やかであれば、刀剣が千年使われずとも惜しくはない」。
たとえ雄々しい志や猛々しい気概があっても、それすらも知らぬうちに冷たい氷や霰のように消えていくものである。
6. 解釈と現代的意義
この章句は、**「静かで何もないこと=善」「動きや刺激=害」**という、東洋的静的価値観の極致を表しています。
- 戦争・功名・改革といった「動くこと」が美徳とされがちな社会への逆説的批判
- 平和や安定は、派手さや達成よりも、犠牲なき持続の上にこそ尊い
- 大きな成功の裏に、気づかぬ“万骨枯る”がある──冷徹な歴史観
7. ビジネスにおける解釈と適用
✅ 「大きな成果の裏には、見えない損失がある」
- プロジェクトの“成功”の裏で、どれほどのメンバーが燃え尽き、離職したか
- 新規事業の“功績”の陰で、既存事業が打撃を受けていないか
✅ 「“動かない”ことが、時に最大のマネジメント」
- 組織改革や戦略変更など、“動くこと”に酔ってはいけない
- 状況を俯瞰し、“変えない選択”をする勇気と洞察も必要
✅ 「道徳や哲学なき“雄心猛気”は空転する」
- 「成功するためなら手段を選ばない」姿勢は、長期的に信頼を失う
- 情熱があっても、“冷たい氷霰”と化すことのない“温度と方向”が必要
8. ビジネス用の心得タイトル
「一事起これば一害生ず──“動く勇気”より“静かなる智”を」
この章句は、経営戦略の可否判断、リーダーシップ教育、リスクマネジメント研修などで活用可能です。
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