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奢りの離宮は、国を支える民を蝕む

貞観の初年、太宗は側近たちに、自らが目にし耳にした隋煬帝の末路を引き合いに出し、こう戒めた。

「隋の煬帝は、長安から洛陽、幷州から涿郡に至るまで、道の両側に離宮を建て、街路樹を植え、行幸に耽った。
だがその背後で、人民は果てしない労役に苦しみ、ついには盗賊となって国を乱し、煬帝は寸土も掌握できなくなった。
行幸や造営が、いったい何の利益になったというのか。私はこの目で見て、この耳で聞いた。
だからこそ、軽々しく民を動員せず、民が穏やかに暮らせることを何より大事にしているのだ」

太宗は、自らの政治において「民の静安(せいあん)」を根本とし、過去の暴政を深く戒めた。

為政者にとって、見栄や虚栄を満たすための壮麗な建築は、結局、国を支える土台――民の信頼を失わせる。
城や宮殿は、民の心に築かれなければならない。


■引用(ふりがな付き)

「廣(ひろ)く宮室(きゅうしつ)を営(いとな)み、好(この)んで行幸(ぎょうこう)すといえども、竟(つい)に何(なに)の利益(りやく)か有(あ)らん」


■注釈

  • 行幸(ぎょうこう):天子が都を離れて出かけること。唐代以前には権威を示す一方で、浪費や暴政の象徴にもなった。
  • 隋煬帝(ずいようだい):唐の直前、隋の第2代皇帝。大運河建設や度重なる遠征、宮殿造営などで民を疲弊させ、滅亡を招いた。
  • 幷州・涿郡(へいしゅう・たくぐん):現在の山西省・河北省にあたる地域。辺境にまで離宮を建てたことの象徴として挙げられている。
  • 尺土一人、非復己有:一尺の土地も一人の人間も、もはや自分の手にはなかった、という国家崩壊のたとえ。
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